最高裁がNHKに出したねじれ判決についての雑感

NHKは出版も含めたメディアの頂点に立つ組織である。NHKの方向性やコンテンツの内容については様々な論点があるとは思うが、日本では圧倒的な予算規模・制作能力・人員を持っているメディア体であることに異論を唱えるメディア関係者は少ないと思う。

その組織の巨大さとともに私自身仕事上でNHKの関係者とかかわりを持った時期もあったので、昨日2017年12月6日に出た最高裁判決については強い関心を持っていた。この訴訟は、明確な受信の証拠となるB-CASカードをNHKに提出して受信料契約解除を求めた男性の会社役員とNHKの間で争われていたものだ。

この裁判が特殊なのは、男性がテレビの受信記録となるB-CASカードをNHKに提出したことによって、男性がNHKを受信しているか否かは争点にならず、男性は民法上の契約の自由の基礎概念に基づく契約の任意性を主張し、NHKは放送法上に戻づく公共放送受信に対する契約の必然性(強制性)を主張、つまり民法の契約の自由の概念と放送法の受信契約の必然性の概念が真正面にぶつかり合う法的な戦いになったのだ。

2013年に東京高裁の判決があり、NHKからの契約申し出の正当性を認める一方、契約には「双方の合意」が必要という判決が出た。当時、ネット上では「NHKの実質的な敗訴」ととらえられたようだ。下記はこの高裁判決についての解説記事である。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1804Z_Y3A211C1CC1000/

http://morikoshisoshiro.seesaa.net/article/383147820.html

昨日12月6日の最高裁の大法廷で出した判決はこの高裁判決を支持するものだった。

この最高裁判決は二階建ての構造になっており、(1)放送法に基づきNHKが受信機をもっている人に契約を強制できるのかの是非(2)民法の原則を越えてNHKは受信状態の認定も独自判断できる権限があるのかの是非、が争点だった。

判決では(1)放送法の意義が民法の契約の自由の原則よりも優先され、放送法に基づき受信機所有者への契約の強制が最高裁判決でも裏書きされた一方、(2)受信契約の締結についてはNHK独自の裁量を許さず、民事裁判が最終的な決着手段になるとし、民法の原則が優先されたというものだ。

NHKは民法の範疇を越えて契約対象者(受信機保持者)の国民の意向に関係なく契約を申し立てできる権利がある一方、実際の契約交渉の段階でNHKと契約対象者が契約の事実認定おいて対立したときは、クレジットカード会社やローン会社と何ら変わりなく、原告の義務である客観的な証拠を立証して裁判で決着をつけろということである。

経済的な概念も入れてこの最高裁判決を解説した記事が以下である。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24325450W7A201C1X12000/?n_cid=SPTMG002

http://agora-web.jp/archives/2029890.html

日経はこのNHK訴訟については踏み込んだ報道していて、アーカイブ記事でも珍しく鍵をかけていなかったりする。もう一方の池田信夫氏はネット上で議論になる方ではあるが、元NHK職員でメディア学で博士号を得た方であり、放送においては的確な評論をする方だと思っている。

最高裁の判決要旨は以下のリンクの通り。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/281/087281_hanrei.pdf

判決文の「1 放送法64条1項の意義(ア)」では放送法に基づくNHKの存在意義をほぼ全肯定している。

“放送法が,前記のとおり,原告につき,営利を目的として業務を行うこと及び他人の営業に関する広告の放送をすることを禁止し(20条4項,83条1項),事業運営の財源を受信設備設置者から支払われる受信料によって賄うこととしているのは,原告が公共的性格を有することをその財源の面から特徴付けるものである。すなわち,上記の財源についての仕組みは,特定の個人,団体又は国家機関等から財政面での支配や影響が原告に及ぶことのないようにし,現実に原告の放送を受信するか否かを問わず,受信設備を設置することにより原告の放送を受信することのできる環境にある者に広く公平に負担を求めることによって,原告が上記の者ら全体により支えられる事業体であるべきことを示すものにほかならない。”

放送法64条1項※は「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」と定めているが、大法廷は以下のようにこの放送法の条項により受信契約には法的強制力があると判断した。

“放送法64条1項は,原告の財政的基盤を確保するための法的に実効性のある手段として設けられたものと解されるのであり,法的強制力を持たない規定として定められたとみるのは困難である。”

 

一方で、注目をすべきところは判決文の「1 放送法64条1項の意義(イ)」の部分である。

“そして,放送法64条1項が,受信設備設置者は原告と「その放送の受信についての契約をしなければならない」と規定していることからすると,放送法は,受信料の支払義務を,受信設備を設置することのみによって発生させたり,原告から受信設備設置者への一方的な申込みによって発生させたりするのではなく,受信契約の締結,すなわち原告と受信設備設置者との間の合意によって発生させることとしたものであることは明らかといえる。”

受信契約におけるNHKの裁量性を明確に否定し、民法上の「合意」が契約には必要としているのである。

さらに、

“同法(※放送法)自体に受信契約の締結の強制を実現する具体的な手続は規定されていないが,民法上,法律行為を目的とする債務については裁判をもって債務者の意思表示に代えることができる旨が規定されており(同法414条2項ただし書),放送法制定当時の民事訴訟法上,債務者に意思表示をすべきことを命ずる判決の確定をもって当該意思表示をしたものとみなす旨が規定されていたのであるから”

と、受信契約は民事訴訟法に基づいて最終判断がされ、NHKが支払いを要求する受信料も民法上の債権と同等に取り扱われることが明示された。

この判決によって、NHKは一方で公共放送に対する法的裏付けという翼を与えられたが、受信契約の運用においての特権性という翼はもがれた。このもがれた翼の跡は実質的な憲法裁判所である最高裁大法廷の判決によって一般民事法で塗り固められたということもあり、再生は簡単になされないであろう。今後、NHKが受信料契約を結ぶために電力会社から情報を集めたり、ネット配信を開始した際のユーザー情報を電話事業者やプロバイダーから収集するといったことを企図した時も、この民事法の範囲内の契約決定を重んじるこの最高裁判決が重しになる可能性もあるだろう。

この司法判断を上書きするためには国会による立法しかないのだが、政治的に中立であるべき公共放送を規定する放送法の改訂にあたって、政治的な判断で最高裁の判決の方向性を覆すことには議員たちも慎重にならざるを得ないよう感触を受ける。

受信機を設置していれば受信契約は義務であるという大法廷の見解が出たため、NHKは未契約者との民事訴訟については強気にすすめていく可能性は高い。しかし、未契約者の国民との法事的な係争が増えれば、国民の福祉のために信託されたメディアという概念から国民の意識は離れていくことになる。また、この最高裁裁判もそうだが、訴訟を連発すれば反撃する者も必ず出てくる。この裁判の被告男性は会社役員ということで経済的な余裕もあるのだろう、弁護士を雇い、民法上の契約の自由の概念を掲げてNHKと三審を戦い抜き、訴訟そのものは負けたかもしれないが、歴史的な判断を最高裁から引き出したのだ。

個人的には国民・政治・企業から独立した公共放送という存在は必要だと思うし、日本のそれが現状のNHKであることに疑問があったとしても、視聴しているのであれば受信料を支払ってNHKを支えるべきだとも思っている。しかし当然ながら全ての人が同じように思っているわけでもないし、この判決からも受信者となる国民とネットにも進出を企図しているNHKが対立する局面が増えていきそうな感触を受けた。良くも悪くもNHKは日本のメディア文化の中心であって、この最高裁判決を受けて彼らがどのような方向に進むかは多くの人々に少なからず影響を与えると思っている。

※註 放送法64条1項該当部分

協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であつて、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第126条第1項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。

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ピリオドの使用法違反があるiモード・EZwebのアカウントにメール送信ができないときの対処法

連絡先としていわゆるケータイメールを教えられるとちょっと困った感じになることは多い。特にこちらが仕事をする立場だとなおさらそうだ。こちらは仕事用のケータイメールを教えることもできず、PCメールから連絡すると、ケータイメールのサーバーから送信エラーのDAEMONメールが返ってくることが往々としてある。

ケータイ側が迷惑メールのフィルタリングとしてケータイメール以外のメールを受け取らないようにしていることが送信エラーの要因としては多いのだが、ケータイメールアカウントそのものが国際基準不適合で送れないケースも少なくはないのだ。

NTTドコモのiモードメールとauのEZwebメールでは2009年まで、メールアドレスのアカウント名部分(@の前側)に、ピリオドの連続使用や@部分の直前にピリオドを使用するメールアドレスを発行してきた。

xxxx…xxxx@docomo.ne.jp
xxxxx.xxxxx.@ezweb.ne.jp

などである。

このようなピリオド使用があるメールアカウントをNTTドコモとauは大量発行していたが、これはIETFというインターネット黎明期からインターネットの標準規格を策定してきた国際標準化団体が定めた標準仕様「RFC」のプロトコルに違反する仕様である。そのため、gmailやMicrosoft Outlookなど国際的なメールサービスからはこれらプロトコル違反のiモードとezwebアカウントにメール送信が原則できない。(ただし、国際企業のvodafone日本法人を前身とするソフトバンクはこの問題を回避している、また日本の携帯キャリアのいわゆるケータイメール同士だと問題は起こらないようだ)。

この問題については下記の記事が詳しいのでご参照いただきたい。

https://www.h-fj.com/blog/archives/2009/03/01-100125.php

https://support.microsoft.com/ja-jp/help/940620

NTTドコモもauもこの問題を積極的に広報していないため、これに気付かずに国際標準違反のアカウントからPCメールなどに送信している方はまだ多く、これらの違反アカウントからPCメールで教えられたメールに返信できないし、それに伴うコミュニケーショントラブルが発生するという問題も起こる。

少し面倒くさいが対処法もある。
標準違反のアカウントにgmailなどから返信する方法として、そのアカウント部分を引用符を挟む方法がある。

“xxxx…xxxx”@docomo.ne.jp
“xxxxx.xxxxx.”@ezweb.ne.jp

などとする方法である。gmailなどからもこれらのアカウントへ送信ができるはずである。

華原朋美『LOVE BRACE』―小室哲哉が描いた自己承認の物語(前編)

全権型音楽プロデューサーとして絶頂期を迎えていた小室哲哉、デビューからわずか半年あまりでミリオン歌手になった恋人の華原朋美。日本社会の若者文化の勢いが最高潮に達していた1996年夏にこのふたりはアルバムをリリースした。

当時37歳の小室はここに自身が持つ音楽的資産を全投入し、華原を題材に作詞家としての才能も開花させた。当時21歳だった華原もそれまでの人生と歌手としての優れた身体的素質のすべてを創作の素材として小室に提供している。

商業至上主義と当時から根強かった小室プロデュースへの批判と、スキャンダルとともにマスコミ・世間に過剰に消費され続けた小室・華原の芸能人イメージにより、このアルバムがシリアスな評価を受けることはあまり多くないように見える。

しかし、発売から20年以上経過してこのアルバムを聴くと、渋谷にいた少女のひとりだった華原朋美と、日本が高度成長を終えて先進国型社会になって「自分探し」に直面し始めた若者たちの肖像もそこに見えてくるのである。

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【アルバム情報】

“LOVE BRACE”

<アーティスト>華原朋美
<歌>華原朋美+小室哲哉
<演奏>ギター以外の楽器:小室哲哉/ギター:松尾和博
<マニュピレーター>小室哲哉/村上彰久
<ストリングアレンジ>Randy Waldman
<ミキシング>Keith Cohen
<プロデューサー>小室哲哉

<収録曲>

Track #1  LOVE BRACE (overture)   1:38
Track #2  Just a real love night  5:03
Track #3  keep yourself alive (more rock)  6:01
Track #4  Living on…!  4:48
Track #5  I BELIEVE (album earth mix)  6:47
Track #6  summer visit  6:06
Track #7  MOONLIGHT  4:12
Track #8  I’m proud (full version)  5:36
Track #9  Somebody loves you  5:45
Track #10  LOVE BRACE  6:53
Track #11  I BElIEVE (play piano)  4:14

全曲作詞・作曲・編曲:小室哲哉(#7のみ小室哲哉・華原朋美作詞)

<発売日>1996年6月3日
<レーベル>ORUMOK RECORDS
<発売元>パイオニアLDC
<累計売上枚数(2014年時点)>257.1万枚(1996年オリコン年間9位)
<オリコン週間チャート最高位>1位(通算2週)

【発売情報】

Itunes : https://itunes.apple.com/jp/album/love-brace/id178154022?app=itunes
レコチョク:http://recochoku.jp/album/A2000469626/
Amazon: http://amzn.asia/e26lvfe

【歌詞が流れをつくるアルバム】

このアルバムでは歌詞が時間の流れをつくっている。その流れを追うと、当時21歳だった華原朋美、そして小室哲哉が華原を通して見ていた90年代の若者の心象が目の前に流れてくる感覚になる。時間をオーディエンスに体験させることは音楽・映画・文学・絵画をはじめとする芸術・エンターテイメントの本質だが、このアルバムは歌詞によってつくられた文学とも言えると思う。

小室哲哉は発売当時からこの『LOVE BRACE』と先行シングルの“I’m proud”は歌詞に力を入れてきたと繰り替えし公言してきた。

このアルバムの発売直前、小室は盟友であり友人のTMネットワーク・木根尚登のラジオ番組に華原とともに出演した際に、木根にレコーディングで苦労したことについて聞かれてこう語っている。

“彼女の場合は、もうやっぱり僕としては詞なんですよ。もう本当に詞を大切にしてるつもりなんですよ。でも、最初の一曲目からやっぱり何気なくこういう話をしようかなとかではなくて、本当にそのままを、(華原から話を)全部を聞いて、でそれを自分で消化しきって、消化しきってやっと言葉が出てくるという感じだから、一曲に対する言葉の重みは自分としてはすごいある。・・・音はまあ、すごく生をたくさん使うようにして頑張ったんですけど、でも詞が一番大変でした、彼女の場合は。”
1996年5月22日放映・bayfm「ラジオのチカラ」より

小室が作る歌詞には聴き手によって様々な解釈があるが、このアルバムを聴きとおしていると、歌詞には当時のパートナー華原朋美だけでなく、彼女を通して20代前後の女性(男性を含めた「若者」と言ってもいい)にある普遍的な心理を描こうとしていると感じる。

華原朋美のシンデレラストーリーをラブストーリー仕立てにして世間の歓心を買おうとしただけのアルバムでは決してないことは確かである。

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アルバム『LOVE BRACE』のブックレットのイメージ写真より

【作詞家・小室哲哉】

小室哲哉が1983年に結成したユニット「TMネットワーク」。小室のキーボードのリフを核としたサウンドは当時の音楽シーンにおいては先鋭的な存在だったが、“Self Control”や“Get Wild”などのマイルストーンになった重要曲の多くは作詞家の小室みつ子(偶然、小室哲哉と同姓の、全く血縁のない女性作詞家である)によって担われていた。特にTMネットワークのファンには小室・木根・宇都宮隆に次いで、小室みつ子を第4のユニットメンバーのように見なす人も少なからずいたと記憶している。私は(ライトな)TMファンだったのだが、小室哲哉がプロデューサー業にシフトしてからtrfの楽曲などで詞を自作し始めても、小室の作詞には正直ピンと来なかったというTMファンは私だけではなかったはずである。

一方で、いわゆる93年以降の小室プロデュース期のファンには小室作の歌詞に思い入れがある人が多い。小室楽曲がカラオケでよく歌われるようになった影響も多いのだろうが、何より小室自身が詞を曲の中心に据えて曲作りをしていることが大きいのだろう。

小室哲哉は1998年発行の書籍に以下のように書いている。2010年以降の小室の発言とも一貫する内容である。

“プロデューサーとして魅力あるCDを提供するのに、なにが一番大切なのか。いま、マーケットはどんなことに反応するのか。僕は、CDを構成するあらゆる要素から、不必要なものを削ぎ落してみるという作業をしてみました。ジャケットの写真やデザイン、先端のリズム、凝ったアレンジ・・・次々と削ぎ落とす中で、残ったのはタイトルと歌詞でした。なんだ言葉か、と思われるかもしれません。でも、言葉にはテクニックや仕掛けでは成立しない力があるのです。僕の場合はテーマはひとつです。つかめそうでつかめないもの。ベースが恋愛でも友情でも、ぎりぎりのエッジの部分を描きます。これは一貫してかわりません。”
小室哲哉・中谷彰宏『プロデューサーは次を作る』(1998年、飛鳥新社刊)より

小室の基本はキーボディストでありコンポーサーである。TMネットワークの実質的なデビュー曲の『1974 (16光年の訪問者)』の歌詞は小室自身の人生も投影しているものであり、ラジオ局による新人コンテストではある程度完成させた小室自作の歌詞で演奏していたが、シングル化されるときは小室みつ子に歌詞の仕上げを任せている。小室自身も当時、サウンドが先に来て歌詞は後からのっけるものだったと振り返っており、作詞家としての本格的な模索は91年にTMネットワークを半仮眠状態にした頃からだと思われる。

小室はプロデュース活動をメインにしはじめた93年以降、ZARDやB’zをメガヒットさせていたビーインググループの手法にならい、テレビタイアップとカラオケ需要を取り込むことを意識した。メインターゲットは女性だった。男性の需要は女性によって誘導されるというのはバブル以降のマーケティングの常識になっていた。マニアックな要素も強かったTMネットワークでのセールスを乗り越えるヒットを生み出すには、女性しかもライトなマジョリティ層を取り込む必要があった。

小室哲哉は、91年からエイベックス創業者の松浦勝人と二人三脚でマーケットの開拓に努めていくが、当時の松浦の最大の使命はタイアップを取ることだったと松浦自身が司会するラジオ番組での小室との対談で振り返っている。創作する小室もタイアップを成功させるためにはクライアントや広告代理店の意向に柔軟に対応する必要があり、その時の要求に合わせて歌のフレーズを素早く・機動的に生み出し修正していくには詞を自作することが必要だった。

加えて、カラオケにおいて女性ユーザーが自作曲に自己投影する気にさせる意味でも、小室は歌詞を重要視して自作するようになっていた。小室が作詞の自作を本格化していったのはビジネス的な要素も大きい。

小室の詞で印象的なのは、言葉の展開の曖昧さ―ストーリー性を持ったイメージやフレーズの鋭さを感じさせる一方で節が起承転結のようなきれいな構成をもっているわけではなく、破綻や不均衡を感じさせながらも、切り取られた時間、そしてその時間の重なりが埋め込まれた歌詞が聴き手の中に浸透していく――のだが、このような詞は小室の言うところの「(聴き手が入り込みやすい)匿名性」や「(聴き手の自由な解釈を許す)のりしろ」をも持っている。

この歌詞の傾向は、小室が傾倒していたイギリスのロック音楽の歌詞にベースがあるように思われる。演歌が典型の日本の歌謡曲の歌詞ように、情景や心情をきれいに立て板に水を流すように描写するのではなく、シェイクスピアの戯曲のようにイメージが矛盾や二面性をはらみながらも拡散しつつも世界観を有機的に保っているような詞を目指していたように感じる。TKプロデュース時代、小室は曲づくりでベースとベースドラムのリズムパートも重視していたと思うが、イメージ拡散型のフレーズ配置は、このダンスミュージック型のリズム配置にも適合していた。

篠原涼子の94年夏のシングル「恋しさと せつなさと 心強さと」は小室初のダブルミリオンを達成し小室プロデュースの力を世間に見せつけたブレークスルーというだけでなく、めくるめくようなメロディー展開を持った90年代TKミュージックのショーケースのような曲である。この曲の歌詞を見れば、小室はビーイング系(特にZARDの)の最大公約数を満たしつつ前向きであり、女性の応援歌にもなるようなフレーズを意識していたことがわかる。

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94年5月、TMNとしてのラストライブでの小室哲哉。この時期に篠原涼子のデビューシングルも準備していた。

音楽シーンの中心に躍り出た小室は作詞傾向をさらに変化させていった。94年末から制作されたH Jungle with tの「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」では歌い手のは浜田雅功や小室自身を想像させるもので、言葉や情景を聴き手に刺すだけでなく、「人」を描き始めていたように思える。もしかしたら、当時の小室のチャート上の最大のライバルになっていたMr.Chilidrenの桜井和寿がつくる「聴く人に考える時間を求めてくる」フォークとロックが融合した歌詞に小室が刺激を受けていたのかもしれない。

この時期に小室が出会った女性が華原朋美だった。1995年のバレンタインデーに華原が告白してから小室との仲が深まったと2004年の鳥越俊太郎からのインタビューに華原が話している。ふたりの交流はそれ以前からあったと思われるが、小室と華原が本格的に交際開始したと思われる1995年2月ごろ、華原はまだ20歳の誕生日から半年程度が過ぎた女性だった。一方の小室は36歳であり1995年当時の社会的常識ではすでに中年の範疇に入る男性である。

小室は97年秋の近田春夫との対談で以下のように語っている。近田は90年代当時、小室の歌詞に着目していた数少ない音楽コラムニストでありミュージシャンでもあった。当時の音楽評論における小室の音楽への言説は「世界のTK」などと神輿を担ぐか無視するかの二択だったように思うが、近田は他のミュージシャンと並んで小室のプロデュース曲もフラットに扱っていた。少し長い引用だが小室の歌詞の変遷を知るには重要な発言である。

“小室哲哉: あるところから、そうですね。TMやってる頃は、自分が詞を書くとしたら、せいぜいそれこそアーサー・C・クラークとか、ああいったSFの世界、せいぜい中学生の時に読んでた本ってSFばっかりだったんで。

近田春夫: あ、SF好きだったんだ。

小室: SF好きだったんです。SFオタクですから、ほとんどSFばっかりで。

近田: 俺もけっこう好きだったな。

小室: そういう世界をきっとシンセの音と合う世界っていうのを日本語で考えたら、そういうとこなんだろうなと思ってて。そういうのを得意にしようとか、なんか勝手に踏んで決めてたんですね。で、ある時からですね。やっぱり華原やりだしてからですかね。

近田: え? そこらへんからなんだ?

小室: ええ、だと思いますけど。

近田: あ、そうなんだ。

小室: TRFの途中でもありますけど、TRFの途中でも「みんながカラオケとか歌う時に、なんか一言二言覚えてもらっときたいな」っていう言葉っていうのはあったりして。何曲かはあります。篠原涼子であったり、TRFの何曲かであったりっていうのはありますけど。本格的に詞をちゃんと完璧に、聴く女の子が最初から終りまでわかってもらうように考え出したのは、やっぱり朋美くらいからですね。

近田: ああ、そうなんだ。それは意外だったな。俺は、もっとなんか、もうちょっと前ぐらいから、そこの部分にすごいカッチリしたものがあるのかと思ってたんだけど。

小室: まだTRFであったり、そこらへんとかの時は、それは今お話した洋楽のエッセンスをどこまでなんて言うんですかね? 届くようにしとくかっていうか。全くなくなっちゃうと、やっぱりやってる意味がなくて、自分の中に。といって、あんまりそこまで歌詞考えちゃうとっていう、その戦いがあったんで。まあ、とにかく1~2行、1~2フレーズ残ればいいっていう感じだったんですけど。意外と吹っ切れたのは、そうですね、やっぱり朋美の作り出してからですね。”
1997年9月7日放映・フジテレビ「TK MUSIC CLAMP」より

その中に少女が残っている華原朋美と会話を交わす中で、小室は女性の視界から、女性としての言葉を書くようになっていく。trfや篠原涼子の曲も女性をターゲットにしているがそれはまだ三人称の世界に近い。浜田雅功や初期のglobeの曲の詞では一人称になりつつあるが、まだ視点が小室自身だったり男性の視線が残っている。華原の詞では視点は完全に華原であり、女性による一人称になった。この歌詞傾向が最初にまとまったかたちになったアルバムが『LOVE BRACE』であり、歌詞がつくる世界観の完成度という意味では小室プロデュースのアルバムの中でも最も完成度が高いものと思われる。

【渋谷を歩く少女だった華原朋美】

アルバム収録曲#3であり華原朋美のデビュー曲でもある「Keep yourself alive」。シングル版のプロモーションビデオのメイキング映像の冒頭で、小室哲哉はこう語っている。

“歌手なりその人が僕から見て世の中を映す鏡という基本的な考え方があるんですね。華原朋美というのも、やっぱり僕が非常に興味を持っているエリアというか世代であるとか、というところの生き写しというか…僕なんかの世代からは想像もつかないような生活であったりとか、それが日常だったりというのが、すごいいろいろ吸収できるわけですよ、彼女から。それをきいているうちに、あういう曲、あういう詞が、きいているうちにどんどん自分が情報を受け入れて、自分の中でかみ砕くうちに、あういう詞がでてきちゃったんですね”

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華原朋美について語る小室哲哉/「Keep yourself alive」PVより

90年代、小室は主に女性歌手に曲を提供していたが、彼女らと話を交わして歌詞のインスピレーションを得ていた。加えて、スタジオや会議室にターゲット層の10代後半から20代の一般の女性を集めて、彼女たちの生活スタイルや今何を考えているかをヒアリングすることをエイベックスのスタッフとともに繰り返し行っていた。

その中でも、インスピレーションの源泉という意味で、華原朋美の存在は当時の小室の中でも特異な存在だったと思われる。

東京と隣接する千葉県のベイエリアで生まれ育った華原は、徒歩圏で渋谷の中心街に行ける立地の中高一貫の私立女子高に通っていた。学校帰りに仲間とともに渋谷丸井前にたむろし、夜は仲間とともにカラオケボックスで盛り上がり、クラブにも出入りしていた。

渋谷は、70年代からあった輸入レコード店やクラブなどがつくるサブカルチャー文化と80年代からの渋谷パルコなどが牽引した消費文化の要素が融合して、華原が通った90年代前半には日本の若者文化にとっても特別な場所になっていった。

小室は2010年以降、90年代リバイバルの影響やTKブーム直撃世代が編集者になったためか、女性誌のインタビューに度々登場している。ミュージシャンの岡村靖幸との対談で「インスピレーションの源は?」と聞かれてこう語っている。

“いまは、(中田)ヤスタカが原宿だとよく言いますけど、僕は渋谷でした。すべてが渋谷。駅前のスクランブル交差点だったり、公園通りだったり。ただ、渋谷が舞台でも、描く場所を歌手ごとに変えてましたね。生息場所をわけるというか。たとえば、安室さんは“109前”とか渋谷の表側を意識して、華原さんは、渋谷の“内側”。円山町のクラブの近くのコンビニの前でしゃがんでるとかね(笑)。”
マガジンハウス「GINZA」2017年4月号より

当時、渋谷の街全体が若者カルチャーのスーパーマーケット状態になっており、多くの若者を引き付けていたが彼らの大部分は遠隔地からのビジターであった。

華原は2000年に出した自伝エッセイの『未来を信じて』で、
“高校生だった私は、学校が渋谷だったこともあって、学校の帰りによく友達と渋谷の街をブラブラしていました。BEAMSとかで買い物したりお茶したり”
と書いた後に、
“実はパー券を売っていたこともあったりして”
とさらりと付け加えているが、当時の渋谷で「パー券」(クラブで開催するパーティの券)を扱う側にいたというのは、都心部の付属高の学生たちもしくはチーマーきどりたちの、夜の渋谷を拠点に遊ぶ富裕層子弟たちの人脈の中に彼女もいたということなのだろう。華原は渋谷をベースに若者文化の光を思いっ切り浴びていた都市生活者だった。

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デビュー曲について語る華原朋美/「Keep yourself alive」PVより

芸術家が恋人から創作のインスピレーションを得ることは古来からよくあった。小室が華原を見出した時、小室はマリー=テレーズと出会った時のピカソのような気持ちだったのだろうか?マリー=テレーズは恋人兼モデルとして28歳年上のピカソに数多くの傑作を描かせた。いずれにせよ、華原との交際は、95-96年当時の小室にとって若者カルチャー=社会の中心に届く作品創作ための重要な源泉になっていたのは間違いないように思われる。

【1996年】

このアルバムが発売された1996年は少なくとも若者層にとっては、明るさと混乱、そして昭和の新興国的な社会とバブル後の先進国的な社会の空気が混在した過渡期的な時代だったように思う。以前の感想文にもその時代の空気について少し書いたが、1995年に日本の生産年齢人口がピークに達したように、人口動態的にも1996年時点で日本経済はまだ頂点期にいた。バブル経済は崩壊していたが、96年当時は不景気も景気循環の中のものという楽観論が主流であり、1998年以降のような経済的な閉塞感はまだ少なかった。

90年代中盤における10代後半から20歳前後の若者層の特徴は、それまでその年代の特権でもあったモラトリアム的な空間(大人の関与が少ないという意味で)が、社会の消費文化と情報化の進展で急速に市場化していったことだ。その典型例のひとつが小室ファミリー最大のカリスマである安室奈美恵にスタイリングされた厚底ブーツ+タータンチェックのショートスカートと脱色したヘアスタイル+細眉メイクが、メディアの力であっという間に全国の多数の女子高校生層に伝播したことだった。その彼女らを取り囲む、CD、プリクラ、PHS、カラオケなどのアイテムや娯楽も大人たちがお膳立てしたものである。これらを享受する女子高生をまたメディアや企業や大人が追いかけるというサイクルが95年から96年にかけての社会現象になった。

企業や市場が高校生をも放っておいてくれなくなっていた。若者が消費されるということはすでに70年代から進行していたらしいが、1980年代までは企業の消費ターゲットになっているは大学生までであり、90年代には高校生も消費対象になっていった。その辺りの考察は堀井憲一郎の『若者殺しの時代』(講談社新書)にも詳しい。

小室は正にメディアの力を使って女子高校生たちを市場化する立場の大人であったが、作詞家としてはこのようなことを考えていたらしい。

“当時、僕が一番気になっていたのは、一見元気でたくましく見える彼女たちが、ふと一人になった時、何を思うかということでした。
プリクラかカラオケが流行ったように、仲間や友達といる時の彼女たちはとても元気で楽しそうに見えた。でも集団から別れ、ふと一人になった時、凄まじい切なさや孤独を感じていたんじゃないかなぁと、僕はそれが気になっていました”
新潮社「ROLa」2013年11月号より

「孤独」は90年代後半から2000年代前半までの小室の歌詞におけるメインテーマである。この発言は小室ファミリーフリークを公言する社会学者の古市憲寿との対談で出たものだ。

プロデューサーとしての小室哲哉が卓越していたのは、この時代の人間像を複数の女性歌手に分散して投影してポートフォリオを形成していたことだ。この対談でも各歌手に投影したイメージを語っている。

“93年からプロデュースした篠原涼子ちゃんには、「不良性を歌う実験をしてもらいました」…(中略)…95年から手がけた安室奈美恵ちゃんには、積極的で楽観的な「不良性」を体現してもらいました。思い切りがよく、一歩踏み出すエネルギーのある女の子…(中略)…一方で華原さんは、「いつ間にか逸脱してしまった女の子」を想定していました。元々普通の女の子なのに、意図せず規律の外に出てしまった子。「どうせ自分なんて」とため息をつき、自分に自信が持てない。そんな女の子の切なさ、やり切れなさを表現したかったんです”
同新潮社「ROLa」2013年11月号より

加えて、小室はglobeのKEIKOには地方から都市に出てきた社会経験のある女性像を投影していた。

小室のポートフォリオにおける華原の役割は、カリスマの安室奈美恵が積極的でメインストリームに乗っている女性像が投影されていたの対して、メインストリームに乗れない中で自己承認を求めて葛藤する女性像を当てられていたように感じるのである。

96年はメディアの力もあって、若者、特に女子高生が社会文化の中心にいた時代であるが、音楽業界的にももっとも勢いのあった年であったようだ。電通総研の調査によると96年に音楽業界の総売上が推計2兆4001億円で史上最高値を達成している。これは、同96年にカラオケの業界売上が史上最高の1兆2980億円という驚異的な規模に達したことが大きい。98年以降は日本経済の衰退傾向がはっきりしてムードが変わり、カラオケ市場は縮小し、パッケージCDは大物ミュージシャンのベスト盤リリースの連発で規模を持ちこたえるようになる。

音楽業界が幸せだった96年、数多くの優れたアルバムがリリースされた。サニーデイ・サービス『東京』、Mr.Children『深海』などは今でも多くの人に支持されている名盤だと思うが、この『LOVE BRACE』も完成度・普遍性・時代を象徴しているという意味でそれらに十分対抗できる価値を持っている。ただ、小室哲哉と華原朋美がスキャンダルとともにメディアで過剰に消費され続けたため、『LOVE BRACE』から多くのリスナーが遠ざかって行ったのも事実だろう。

【公開恋愛ショーに足を踏み入れたプロデューサーと歌手】

華原朋美の歌手デビューは波乱含みでスタートした。小室哲哉は華原朋美と交際を始めたであろう95年2月以降、小室は華原を歌手としてデビューさせるため、バラエティアイドルとして台頭しつつあった華原(95年前半までの芸名は遠峯ありさ)を芸能界から徐々にフェイドアウトさせていく。一方で、桑田佳祐とMr.Childrenの共演で話題になったフジテレビのゴールデンウィークのイベント「LIVE UFO 95’」では、小室プロデュースを懸けたアイドル・ドッジボール大会で華原を優勝させるという歌手デビューへの仕込みも行っていた。

エイベックスの松浦勝人が、華原同様にアイドル活動の下積みを行っていた浜崎あゆみを1年間ニューヨークに滞在させて、新生アーティストとして生まれ変わらせるロンダリング期間を設けたように、小室も華原をしばらく芸能活動からは遠ざけて時間を作ろうと思っていたようである。しかし、95年6月、講談社の「フライデー」が二人の交際を派手にスクープしたため事態は一変する。小室はスクープされたとき、この危機をチャンスに変える発想で、「フライデー」には友好的な態度をとって交際をオープンにし、スクープを追いかけた他誌の取材も拒絶しなかった。その後、同じ講談社の報道雑誌に取材連載(これは『小室哲哉 深層の美意識』として単行本化された)を許可するなどのバーター取引的な対応もしている。

華原のデビューは前倒しされ、96年8月の小室主催のライブイベント「’95 TK DANCE CAMP」で小室ファミリーとしてのお披露目を終えていた安室奈美恵に先んじて、同年9月8日「Keep yourself alive」でCDデビューを果たした。

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華原朋美のデビューを紹介する95年の雑誌記事

この時期、ふたりの恋人関係や結婚の噂を報じるマスコミの取材攻勢に対抗するため、小室はマスコミ対策にも実績がある大手芸能プロダクションとの提携も踏み切った。ただ、マスコミの報道を要所で水際で抑えることはできても、取材攻勢自体はその後も止むことはない。「I’m Proud」のレコーディングとプロモーション・ビデオ撮影のためふたりが渡米した96年2月には早くも破局説が雑誌や夕刊紙を中心に報道されていった。

小室が『LOVE BRACE』の制作に尋常でない情熱を注いだのも、これらのマスコミと世間からのスキャンダラス的な視点に対して音楽家として対抗心・反抗心をむき出にしていった結果という要素も考えられるだろう。

小室は『LOVE BRACE』と「I’m Proud」を振り返ってこう語っている。

“自分の中で、アルバムプロデュースという意味では、「I’m Proud」が入っている『LOVE BRACE』というアルバムが一番好きでしたね。最初の一音から最後の一音まで、とても大事につくった作品です。まさにタイトル通りプライドをかけていたアルバムですね。でも、このぐらいから世の中的には、楽曲よりも楽曲以外のネタで騒がれることが増えてきてしまったんですよ・・・・・。でも、そういった風潮に絶対に負けたくなかったんですね。音楽でちゃんと応えたかった。”
ぴあMOOK「TM NETWORK 30TH ANNIVERSARY SPECIAL ISSUE 小室哲哉ぴあ TK編 」より

デビューから一カ月後の2ndシングル「I BELIEVE」が大ヒットしたことにより、華原は音楽アーティストとしての訓練や実地経験期間がほとんどないまま(他の小室ファミリーの仮歌はよく歌っていたらしいが)、トップアーティストとしていきなり音楽界の中心に躍り出た。このジェットコースターに乗るようなアクロバティックな状況は華原に相当なストレスを与えていた。昼夜逆転の生活、多忙なスケジュール、取材攻勢から逃れるため自宅やホテルに閉じこもるようになった華原はこの頃から睡眠薬にも頼るようになり、「不健康な生活」が始まっていたと2013年からのテレビとラジオ番組でも回顧している。

小室が「I BELIEVE」「I’m Proud」と名付けた楽曲をそんな華原に歌わせていたが、そのタイル通りに華原を曲を通じて励ます意味もあったのだろう。少なくとも96年当時の華原はそう受け取って曲を歌っていたと当時の雑誌のインタビューで述べている。

『LOVE BRACE』はマスコミに追いかけられる公開恋愛ショーに投入されて、そこでの風評を乗り越える実績をつくらないと、ただのよくある業界の大物と愛人という水物の物語で終わるという追い込まれた状況の中で、ふたりがつくった作品でもあるのだ。

【制作】

このアルバムは96年4月から5月にかけて、約1カ月強をかけてレコーディングされた。400万枚を超える驚異的なセールスをあげたglobeのファーストアルバム『globe』(96年3月発売)がわずか10日間の強行スケジュールでレコーディングされたのに比べれば恵まれたスケジュールだった。小室は「1曲収録するごとに1キロ体重が減る」、華原は「24時間音楽だけだった」と当時のラジオ番組で語っており、相当熱の入ったレコーディングだったのだろう。小室による歌唱への要求も高く、華原は幾度となく泣きながら歌入れをしていたという。

アルバムタイトルの『LOVE BRACE』はカルティエのスレッドと呼ばれるバングル(2017年現在廃盤)がモチーフになっている。パートナーにネジ止めしてもらう前提のいわゆるラブ・ブレスレットの一種だ。華原いわく「​小室さんから(ブレスレットを)もらった時にファーストアルバムの名前になったらいいなあと小室さんに呟いたら、本当にそうなった」ということらしい。

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ふたつのリングをイメージしたアルバム『LOVE BRACE』のCM

同名の収録曲「LOVE BRACE」はアルバム曲で一番最初に完成したが、大切に歌いたいという華原の希望で一番最後に収録された。華原は「I’m Proud」の小室による第1稿目の歌詞にダメ出しするなど、全体として小室は華原の意向をかなり組み入れてアルバムを制作している。また華原が歌唱のイメージを得られやすいように、#6の「summer visit」は三浦半島の海辺にある観音崎スタジオで歌入れを行ったりと、華原の歌唱力を引き出すための環境が整えられていた。

【『LOVE BRACE』が描いてるもの】

歌詞に着目しながら『LOVE BRACE』を通して聴いているとこのアルバムにはふたりの主人公がいるように見えてくる。ひとりはもちろん華原朋美自身で、もうひとりは小室が華原を通して見ようとしていた渋谷を歩くような都市に生きる女性―もしくは若者(たち)である。

このふたつの人物像を軸に描かれているのは、当時華原が持て囃されていたようなシンデレラ・ストリーでは決してない。歌詞カードを読み通せば、それは一目瞭然である。このアルバムでは華原を含む女性・若者の内面的な葛藤が描かれている。そして、そこに流れる時間は少女・子どもだった人間が大人になっていく瞬間をとらえているのだ。ハッピーエンドの予定調和でストーリーが終わるわけではない。そういう意味でこのアルバムの本質は恋物語であるよりも若者の内面的な自己形成を描く教養小説(ビルドゥングス・ロマン)に近い。

この物語の主人公は常に不安と戦っている。愛に恵まれてそれを享受し希望に胸を膨らませる瞬間もあるが、その次にはまた不安と戦う時間がめぐってくる。この不安は自己承認を得られる対象が不安定だったり見えなかったりするため、葛藤は終わることなく続いていく。

バブル社会を経た90年代の中盤からの若者の水面下で進行していたのは「自分が肯定できるような自分を肯定するものが欲しい」という自己承認欲求と自分探しの流れである。もちろん自己承認欲求の動きは昔から若者層にあったが、90年代からの日本の若者層に特徴的なのは自己承認欲求を達成する対象がよく見えないし、自分で見つける必要があったことだと思える。

1960年代も若者の時代だったが、この時は大人がつくった社会規範と共同体が岩盤のように強固に存在していて構造ははっきり見えていた。それらに対抗するだけでも運動になり、またそこに入っていくのもパワーを必要としたから、多くの人々はそこから自己承認も得られていたのではと60年代当時の人たちの証言や小説・映画に接しても思うところだ。

このアルバムには確かに「愛」が描かれている。しかし、それは強固で確固たるイデア的なようのものには思えない。それは正に小室が表現した「つかめそうでつかめない」ようなものだ。当時の多くの若者が自分探しの中で得ようとしていた夢・希望・理想のようなものと同じく愛も不安定で流動的で安心を得られるものではない。だから、それを求める自己承認欲求者は絶えず不安の中にいる。しかし、小室哲哉は作家として時代の観察者として、その不安定なものの中にこそ愛の本質があり永遠的なものを見ていたように気がしてならない。

後編につづく。

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【参考リンク】

・基礎情報については2017年2月7日の感想文の下部にあるリンク一覧をご覧ください。

https://iidabashiueno.wordpress.com/2017/02/07/kahala1995/

・ローリングストーン日本版による小室哲哉へのインタビュー。globeを基軸に90年代から2010年代へ続く小室の世界観や歌詞への考え方を垣間見られる。

(前編)「小室哲哉インタヴュー 前編:globeが歌う「孤独」、妻KEIKO、結成秘話を語る」
http://rollingstonejapan.com/articles/detail/25217

(後編)「小室哲哉インタヴュー 後編:今もしKEIKOが歌えたら、歌ってもらいたいことが山ほどある」
http://rollingstonejapan.com/articles/detail/25218

・『LOVE BRACE』期の小室哲哉のマネージャーだった伊東宏晃氏(現 エイベックス・マネジメント社長)のインタビュー。全盛期の小室を支えたスタッフたちのアクロバティックな状況が伺い知れる。デビューから97年中盤まで華原の活動の基礎を支えたのもエイベックスの人材だった。

Musicman-net インタビュー 「第143回 伊東 宏晃 氏 エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長」
https://www.musicman-net.com/relay/63294