回想―3月11日

あっという間の1年だった。

1年前の午後2時46分、何かのルーチンワークを仕事場でしていた。
前日1年間ほど揉め続けていたある仕事の収束に目処をつけて、
緊張が和らいだせいからか精神的な疲れがじわりと出ていた頃だった。

あの大地震の揺れが起きた時、これはすごい地震が来た、関東か東海地域直撃の地震がついに来たのだと思った。

事務所はもろい構造だ。

大きいのが来たら、机の下なんかには逃げず、とにかく外に出るという意識がその事務所の人間にはあった。ノートパソコンで仕事をしている者はAC電源を引っこ抜いてそれを持ち出した。デスクトップで仕事をしている人間はバックアップハードディスクを引っこ抜いた。建物に2度と戻れないかもしれない。その瞬間に持ち出せる重要なものを持って、とにかく外に出よう―

20秒後には外には出ていた。建物にいた人が続々と外に出る。

何の障害もない道路上なのに、立っていることができない。

1分たっても揺れは続く。しかも強い。

事務所の向かいにある酒屋。ケースに積んでいた酒瓶が次々と落ちて割れていく。

子供がいる人が電話をしても全く通じない。

電話端末で揺れいている瞬間を携帯で動画撮影しようとも一瞬思ったが、それを実行する余裕はなかった。

Twitterのタイムラインを見ていると、仙台駅の新幹線ホームの電光掲示板が斜めにぶら下がっている写真が出てきた。東北で起こった地震だと気づいた瞬間だった。

揺れは断続的になってきた。揺れが収まったと思って事務所に戻るとまた揺れてパソコンを片手に外に飛び出すことを繰り返した。

近隣に住んでいる老女が2階の窓から下を眺めていた。

私が話しかけると、
“もう80歳近いし、身体も動かないから、死ぬなら自分で家で死ぬの”
と言って、救護の申し出も固辞し続けた。

鉄道がマヒしたのは確実だった。
1センチの積雪でもマヒするのだから、この大地震で回復するのはすぐじゃない。

小学生の子供を持つ同僚は気が気でなく、電話をしても通じない。
大通りでは路線バスがまだ生きていることに気づいた。
バスが生きている間にとにかく帰った方がいいということで、
私はその人の上長でもないのだがオーケーを出して、
その人はバスに飛び乗っていった。

揺れがようやく収まり、事務所に戻った。
社長とは連絡がとれず、同僚と話し合って各人の判断で帰っていいということになったが、帰れるアテもなく、物が散乱した事務所で片付けをしていた。

午後4時台、ネットではお台場のボヤなど東京の被害のニュースしか情報は上がっていなかった。

東北は以前も大型の地震があったので、それを上回る規模の地震なのだという程度の認識だった。

首都圏の交通が全てマヒしているということをテレビで確認して、帰れない前提で近所のスーパーにめぼしい食料品を買いに行った。
午後5時ぐらいだ。
その時は買い占めの情景はなかった。
人もまばらだった。
水、カップラーメン、チューブ型ゼリーを買って会社に戻った。

インターネツトは生きていたから、メールを使って仕事を再開した。
同僚がテレビを見ていたので、それを覗くと、
それは宮城の沿岸部で海の濁流がバイパスを飲み込む映像だった。
これはとんでもない惨事が起きているとはっきりと分かった瞬間だった。
その後に海水に飲まれる仙台空港の映像が出てきた。
もうそれは映画の映像ようで、現実感はあまりなかった。
午後6時ぐらいだった―

それから、新宿駅についたのは午後11時ごろだった。
地下鉄が再開したというニュースをきいて、帰ることを決めたのだった。

新宿に向かう道は新宿から吐き出された徒歩者で
朝の通勤時でも見ないような混雑だった。

新宿に差しかかる。
風俗店はいつものようにキャッチを続けていた。
吉野家には行列ができた。
不安なときは何かを食べないと。

新宿駅に着く。
JRは全く動かない。

改札にいた駅員が京王線が再開した旨を必死に乗客に案内していた姿が滑稽だった。

みどりの窓口はすべてシャッターが下ろされていた。
そのシャッターにヒステリックに運行見込なしの告知が張り付けてあった。

地方から来たらしき人が疲れたように座り込んでいた。
私はその人にチューブ型ゼリーを差し出そうとしたが、やはり止めた。
他の人が見ている中で、ある人にあげることにためらいがあるし、
自分のやることが偽善のように思えた。
そしてそのあと、この判断を強く後悔した。

地下鉄は信じらないほど混んでいた。
何とか乗った。
混雑に耐えられず、そして自宅の近くまで接近したのだから、
他の人にスペースを譲るために、最寄駅よりも手前の駅で降車した。

駅から地上に出ると、警察官の姿が目立った。
寒く、これから何が起きるかわからない不安感があった。

ホームレスらしき男性にチューブを差し出した。
彼は「何でこんなことをしてくれるんですか?」とためらったが、
結局チューブを渡した。

自宅にたどり着いて玄関を開けた。
部屋がどんな惨状になっているかと思っていたが、
洗面台においてあるボトルが一本倒れているだけで、
何も落ちていなかった。

実家の様子を確認した。
停止したガスメーターをまず回復させた。

「ヤシマ作戦」と称した節電のよびかけがネットで広がっていたので、
照明・暖房・パソコンの電源は入れなかった。

暗い部屋で風呂を沸かしながら、テレビを見た。

ニュース映像で気仙沼市の映像が映し出された。

暗くて何も見えない地平に炎が広がっていた。

とんでもないことが起きている―
そして、気仙沼の映像を見ながらとめどなく泣いた―

一年前のあの日、何か特別なことをしたわけではないけれど、
地震後の時間は今でも克明に覚えている。

日が明けても、不安感が抜けることはなかった。

仕事のトラブルの疲れもあったのか、翌日の土曜日から日曜日はほとんど何もせず、テレビもつけずに、布団の中から出ようとしなかった。
買い占めがはじまっていたが、参加する気力はない。暗く寒い部屋で、iPhoneのTwitterを見ながら過ごした。タイムラインは地震一色だった。

日曜日の夕方、明日出勤になるだろうということで、さすがに少し動く気になり、近所の酒屋でミネラルウォーターを買った。普段見向きもしないのに、こんな時だけ買いに来て悪いなと思いながら。

テレビをつけた。
しばらくして、東京電力の清水正孝社長の記者会見の映像になった。

マイクを持ちながら「これから着席させていただきます」と言うあたり、
日本企業の典型的なお偉いさんという感じだった。

青い作業着を着こんで、輪番停電の必要性を説明するあたりで、
人々の生活を握る電力を供給するインフラ会社のトップなのだという
権能感が全身からみなぎっているのを読み取れていた。

福島地方の原発に対しては、「全力で対処する」と一言触れただけだった。

それから3日後の15日の朝、東京電力福島第一原発の4号機と2号機が相次いで爆発した。
NHKの実況中継は水素爆発であり核爆発ではないことを解説者が連呼していた。
でも、チェルノブイリの爆発って水素爆発だろう?

僕は社長の携帯に電話をした。
彼は電話に出なかった。
不必要な出勤は必要なく、自宅での作業を選択できるようにして欲しいと留守電に吹き込んだ。
返信の電話はなかった。
同僚にも連絡をとっていたが、社長判断は示されなかったので、通常出勤した。

出勤して社長と会ったが、その話題は話さなかった。

その日の夕方、
社長は持ち前の勢いで、
「俺の知り合いで広島の被爆者がいるが、80歳を過ぎてもピンピンしている。
何だったら俺が福島第一にボランティアに行ってやる」
と、パニックを起こしている人たちに話しかけていた。

そして、それから波はあったけれど、通常が戻ってきた。

でも、あの地震は私を確実に変えた。
これまで無意識に寄りかかってきたものが、本当の修羅場では頼りにならないことがよくわかった。
それはとても重く、しかしながら僅かな開放感もあった。

私はそれから惰性でつきあってきたものから静かに撤退するように心がけている。

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iidabashiueno について

出版社勤務です。文章の練習のためにブログをはじめました。

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