ThinkPad(Lenovo) のノートPCを購入・注文するときの注意点(メモ)

IBMブランドだったThinkPadノートブックPCは中国Lenovo(レノボ)に事業譲渡後も設計は日本の神奈川で行っており、堅牢なボディ、キーボードタッチの良さ、重厚さがあるブラック基調のデザインなどの伝統はIBMから引き継いでいる。Macに対抗できる質感を備えている数少ないWindows PCブランドの一つだと思う。しかし注文するときは、玄人向けメーカーのLenovoのクセみたいなものを知っておかないと火傷するかもしれない。ちなみに情報は2017年2月現在なので、悪しからず。

・Lenovo(レノボ)は納品、発送は遅く、読めないメーカーであることを覚悟する。→ LenovoのPCはCTO(カスタマイズ受注生産)による注文・納品が原則で、作り置きの商品は少ない。CTOでの注文は納期が遅く、中国生産でも米沢生産でも最速2週間を見込んだ方がよい。少なくとApple、Dell、HPより納品は遅く遅延も多いと覚悟したほうがいいと思う。Lenovoの最上位ブランド機種はNECの米沢工場で生産するモデルも選べるが、米沢産は注文後に部品欠損で遅延する確率も高い(そうなると1か月待ちはザラ)。米沢の工場は中国の工場より小さく、世界のサプライチェーンの主流からは孤立している立地なのでこれはやむを得ない。米沢と中国の品質の差はなく、通常の納品日の差もほとんどなく、日本製のブランドをとるかの差のみと販売員の方は力説していたが…。納期の遅さ、遅れが仕事や生活に影響してしまう状況の人はLenovoのPCを注文するのは止めておいた方がいいだろう。

・割引率の変化が激しい。 → 直販サイトで土日祝は割引率40%台、平日は30~20%と曜日によってなぜか露骨に違うので注意。とにかくLenovoのPCは新発売時期をのぞくと、40%以上の割引率で買えるものと思っていい。ホリデーシーズン、Lenovoの四半期ごとのバーゲンシーズンだと、平日でも割引率が高く、休日には値引きがさらに数%加算されたり、割安なパッケージが出ていたりする。

・注文は家電量販店での購入ではなくLenovoサイトでの購入を選んだ方がいい。 → 量販店で買ってもポイントつかない、値引きもなく、アフターサポートもない。加えて購入時に、キャンセルしない・延着の了承・アフターサービスは量販店に依頼しないなどの誓約書を書かされる。Lenovoは注文した製品の到着の遅延が多く、売り場で誓約書を書かされてもサポートに連絡して了解が取れると注文のキャンセルや返品ができるが、返金はレシートなどを揃えて量販店に行かなくてはいけない。また、注文後の納品状況の確認もいちいちサポートに連絡しないといけない※。サイト直販での購入は確認ページでオーダーナンバーを入力して確認できる。量販店の販売員の方は親切な方が多いとは思うが、裁量はほどんどないとのことだ。

※後日、購入店の代表電話(レシートやホームページなどに記載)と売り場で通知される注文番号で注文ステータスを追跡できると知ったが、これは公式には案内されていない。

・注文から14日経過しても製品が未発送の場合は注文をキャンセルできる。量販店で購入した製品でも、カスタマーセンターにキャンセルの電話かメールをして了解を取ることができれば、量販店の担当者から返金についての連絡が来るようになっているはずである。 → http://shopap.lenovo.com/jp/shopping-faq/faqs/#cancel

・注文から14日経過後に発送された製品も返品できる。ただし、到着後10日日以内の連絡や、未使用であることなどの条件がある。また返品にかかる送料は送り主が負担する。→ http://shopap.lenovo.com/jp/shopping-faq/faqs/#return

・延長保証や電池交換保証は直販サイトで後日購入できる。 → https://support.lenovo.com/jp/ja/documents/thinkplus_list

1995年のシンデレラ、華原朋美を振り返る

1995年の秋、ダウンタウンが司会する歌番組「HEY!HEY!HEY!」で歌手の華原朋美を初めて観たときの印象は今でもよく覚えている。当時ダウンタウンが出演する番組はすべて観ていた。華原はまだあどけなさが残る女性だったが、彼女はマニッシュが入ったミニマムスタイルの黒のスーツとパンツスタイルだった。当時の女性歌手はスーツ姿で歌うことも時折あったが、それはステージ用でありいかにも芸能人用と感じさせるものがほとんどだった。そういう衣装を着ないと特別感が出ないということだと思う。しかし、彼女は女性誌のファッション・スナップから抜け出したような黒スーツ姿だった。モデルのような細すぎる体形でもなく、整形顔でもなく、品のいい美人のお嬢様がこれから歌いますという感じである。この番組では歌手がパフォーマンス前にダウンタウンからフリートークでいじられるのが通例だったが、華原の受け答えは芸能人らしさはなく幼い素人のようだった。しかし、その不安定さにダウンタウンの松本人志も浜田雅功もノリノリで競うように突っ込みを入れ続けた。

彼女が歌いだしたのが「I BELIEVE」だ。
歌詞の“Anytime I believe”という英語詞の活舌が悪く舌足らずだけど、
それがかえって魅力的と思ったことが強く印象に残っている。

“輝く白い 恋の始まりは
とてもはるか 遠く昔のこと
Anytime I believe your smile
どんなときでも あなたの笑顔捜してた
Anytime I believe your love
ずっと前から あなたをきっと見ていた

Give me a Chance! Give me a Jump!
これからの未来へ向かう戦い!
Give you a Speed! Give you a Power!
生意気な態度も時にはUSE!

冬の街凍えてた 寒い夜を憎んでいた
愛を語るより 温もりだけ ほんの少し欲しい日もある”

これから社会に挑戦するあるひとりの女性の姿と不安や孤独感を隠せず愛を求める女性像を描いた詞が入れ子のように交差する詞である。

彼女の歌声の音程は安定しておらず技巧的に成熟していなかったが、豊富な声量と伸びる高音を無理なく出していて、これからの歌手としての大成を感じさせていて魅力的だった。受け答えもたどたどしい女性が、ステージに一度立つとスイッチが入って力強く歌い始める。そのギャップが彼女の魅力のように思えた。

kahara1995dec

1995年冬、本格的なテレビデビュー期の華原朋美。

「I BELIEVE」に魅力を感じたがシングルCDを買うことはなかった。学生でお金があまりなかったということがあったが、交際相手である華原朋美をプロデュースして恋人の歌手として公衆に宣伝する小室哲哉への反発がブレーキをかけ、「どんなに魅力的でも悪魔に魂は売らない」とでも思っているような感じだった。

※ミニマムスタイルの華原のスタイリングは全盛期の木村拓哉、その後EXILEやE-girlも担当した野口強とその師で日本のスタイリストの草分けであるで大久保篤志がディレクションしている。その他、「I BELIEVE」のプロモーション映像(白のワンピース)のスタイリングは当時「Olive」などで活躍していたソニアパークが担当している。

(下はデビュー時の華原のマニッシュなスタインリングの雰囲気をよく伝える「keep yourself alive 」のシングルのジャケット)

kahara1995june

音楽家として、日本のキーボードプレイヤーのパイオニアとしての小室哲哉は敬愛していた(今でもそうだが)。日本のポップスやロック音楽は英米のそれと比べて、「音の厚さ」がおおよそ3割から5割薄いことが多いように感じていた。1980年代のアイドル歌謡曲のバックバンド演奏がその典型だった。しかし、小室哲哉が結成した「TMネットワーク」は英米ものに比べても「音の厚さ」が十分にあり、サウンドのキレもあり、同時期の英米のサウンドとのタイムラグも少なかった。

SELF CONTROL」「humansystem」のようにキーボード・ギター・ベース・ドラムのシンプルな基本編成でもリズムを刻むだけの無駄な音楽空間がない。演奏者の技量の高さもあるが、TMの音楽設計者である小室はヴォーカルのメロディーとサウンドのリフを組み合わせる設計能力に非常に優れていた。洋楽志向だった私が唯一追っかけていた日本の音楽だった。

小室哲哉は90年代前半からTMネットワークでの活動に力を入れなくなり、ソロ活動やほかのミュージシャンとの共演に力を入れ始めた。TMネットワークはデュラン・デュランなどのイギリスの「ニューロマンティック」の系譜を引き継ぐプログレ・ロックの東洋における末裔だった。90年代はじめにはその路線からハードロック路線の実験を行って、TMは休止に向かいつつ、小室はクラブミュージックに傾倒していく。93年に自分としては高額商品だった2枚組約6000円のTMネットワークのベスト盤を購入して、全曲がクラブ調にサンプリングされているのを聴いてがっくりしていたものだ。

1995年ごろは音楽もファッションも良くも悪くも混沌としていて、選択肢も多く、また古いものと新しいものが交差する転換期だった。小室哲哉はやや玄人志向のTMネットワークの音楽を捨てて、メディアで大量露出してカラオケボックスで歌われることを狙った音楽を大量生産するようになった。サーファー系のパーティー文化を意識したtrfを成功させた。それから、ダウンタウンのお笑いコントに出演して汚れ役もいとわなかった準メジャーアイドルの篠原涼子、明らかに歌手として素養がないような感じのダウンタウンの浜田雅功を小室はプロデュースと楽曲の力でミリオン歌手にしてから、世間から驚異的な存在として認知されはじめていた。

当時は小沢健二とスチャダラパーの「今夜はブギーバック」を称賛することはあっても、メディアに煽られた小室音楽を少し冷笑交じりに観察している人間のひとりだった。「今夜はブギーバック」は若者だけでつくった音楽を自分たちで楽しむという悦びが溢れている曲だ。騒がしいパーティーの部屋から抜け出して、踊り場のソファーに腰かけながら仲間と話し込んでいるような居心地の良さがあった。一方、小室音楽はCMやドラマのタイアップを前提にテレビ局や広告代理店の背広の人間とともに作り上げており、カラオケボックスで女子学生や女子会社員がマイクを持ちながら歌詞が映し出したモニターとにらめっこしているのがその情景である。基本女性の歌い手によるハイキーで技巧を排したストレートな力押しのボーカルを分厚い4つ打ちのサウンドが支える構造で「私でも頑張ればノリノリの歌を歌える」と思わせることを狙っているようだった。

その翌年1996年の春、華原朋美は「I’m Proud」を歌いだした。華原朋美は前年より女らしさを強調し、衣装もスーツからワンピース姿になった。成功した女性がスーツ姿から着替えなおし、高級なホテルの中に佇んでいるような姿だった。

華原朋美は小室音楽だけでなく日本音楽界における文字通りのシンデレラになった。しかし、「I BELIEVE」ときのようには感心はしなかった。むしろそこはかとなく不安を感じた。

“Lonely 壊れそうで崩れそな情熱を
つなぎとめる何か いつも捜し続けてた
I’m proud いつからか自分を誇れる様に
なってきたのはきっと あなたに会えた夜から
声にならなくても想いが時には伝わらなくても
笑顔も泣き顔も全てみんな かならずあなたに知ってもらうの
…I’m proud”

「“崩れそな”って、母音省略するのか」という疑問と
「これって女が男に征服されて性交する瞬間の心理でしょう」
という感想が歌番組の歌詞テロップを見て浮かんだものだ。
それは当時マスコミを賑わせていた「誰にも迷惑をかけないから援助交際する女子高生」の成就の瞬間をも連想させて少し気味悪かった。華原と小室の年齢差は16歳である。

同時期、小室音楽のエースだった安室奈美恵がストリートに出て生きる女性として(同性の)仲間とともに喜びと悲しみを共有する曲を歌いあげているとは対照的に、華原は当時まだ残っていた男性との結婚を自己現実の最終目標とする女性の恋愛至上主義を歌っていたように思った。「I’m Proud」が収録されたアルバム「LOVE BRACE」のアートワーク写真は当時話題になった。華原朋美が顔を小室に埋め、カメラ目線になる小室哲哉の構図は1960年代からアメリカのフェミニストたちがメディアにおける男性上位主義の典型としてよく批判対象としていたものだった。

kahara1996june

この年、華原は小室と年末の紅白歌合戦でともに「I’m Proud」を歌い、二人は交際を公然とする態度をNHKの大晦日の伝統番組でも貫き、広く国民に交際宣言をおこなった。私も含め「さすがにこれは来年、結婚するんだな」と思った人は多かっただろう。同時に私は二人の姿が紅白でも何となく浮いているような感じがした。本物の恋愛をこれほど公衆にオープンにするのものだろうか?シンデレラ・ストーリーをつくるためのビジネス恋愛なのだろうか?TM時代から貴公子然として女(アイドル)好きを隠そうとしない小室がこのあどけない女性に本当に満足するのか?嫉妬や悪意にこの「恋愛」が潰されないだろうか?様々な小さな疑問が何とくなく浮かんでいった。

そして、不安は徐々に的中していく。華原は注目度が上がるにつれて上品なお嬢様像から良くも悪くも幼児性を隠さない女性像にシフトしていった。

シンデレラだった華原の異変を私なりに実感したのは「HEY!HEY!HEY!」でのダウンタウンとのトークだった。出演するゲストミュージシャンがダウンタウンとトークするとき、特に松本人志が前のめりでツッコミを入れるゲストとそうでないゲストがいて、デビュー当初の華原は銀のスプーンを持った天然お嬢様キャラとして、小室ネタなどで松本に燃料を投下できるリアクションをしていた。松本・浜田雅功が競ってツッコミを入れていたが、ある時から華原のリアクションに子どもっぽい無理やり感が出てきてすべりはじめ、松本は軽く流して、時々が浜田がキレる流れに変わったと気になったことがあった。

音楽面でも、華原ファンや恐らく華原自身も小室に期待していた、華原の高音の歌声が生きるメロディアスなアップテンポな曲ではなく、突拍子もないデジタルロックの曲か暗いメランコリックな曲を当てられるようになり、華原も無理に歌っている感じが強くなった。しかし、歌詞も含めて不気味に女性(華原)が男性(小室)に依存するというスタイルは変わらなかった。

音楽界の帝王だった小室が華原に飽きて持て余していることは徐々に明白になっていった。華原朋美はトークで退屈なやり取りを続けるか突然突拍子のないことを叫んだりすることが多くなり、幼児性も突破して頭が少しイカレている(が美人でシンデレラのため許される)女性だとみなされるようになった。

97年、すでに小室は華原だけでなく栄華を極めている自分の音楽活動にも早くも飽きがきているのではと感じさせた。小室はおおよそ3年単位で音楽の嗜好を変えていくのはTM時代から感じてきたことだ。この年、L.A.に拠点として活動する姿がメディアに盛んに露出されていった。音楽番組とともに歌い手と出ることは少なくなり、盛んに小室の海外進出の話が言われるようになった。一方で、オーディション番組の「ASAYAN」で、L.A.のスタジオからの高見から延々と若い女性歌手の発掘に執着する小室の姿に少し失望感を感じていたものだ。

97年の紅白歌合戦に華原朋美と安室奈美恵が出場した。華原朋美の歌唱も見ていたはずだと思うが印象はほとんど残っていない。この年の紅白は結婚・妊娠により休業する安室奈美恵のためのものだった。トリで出てきた安室は20歳にして音楽界の頂点に立った歌手として「CAN YOU CELEBRATE?」を歌った。結婚により人気絶頂で引退した70年代のスーパースター山口百恵とは違い、安室はあくまでも一時休業でありその後の復帰を安室は公言していた。会場も視聴者も、結婚後も仕事を続けるという新しい女性の花道を心より祝福していた。

私はこれを見て、この栄光の瞬間を期に安室と小室音楽を「卒業」する人も多いのではと思った。事実、98年以降、小室がヒット曲を出す回数は目に見えて減少していった。そして、同時に「この曲は華原朋美が本来歌うはずなんじゃないのか?」とも感じていた。

98年、私はテレビを見続けていたはずだが、華原朋美の印象は薄くなっていた。華原が素っ頓狂なコミカルソングを歌っているのを見て「華原に篠原ともえスタイルで歌わせるなんて、(華原を放り出した後でも)バラエティー路線でも通用するように小室先生は修行させてるのかな」と思ったぐらいだ(今振り返ると華原が98年紅白で「daily news」を歌っていた姿のような気がする)。

99年は自分もバイトなどで忙しくなってテレビもあまり観なくなり、華原も小室のこともほとんど視界に入らなくなった(この年のはじめに華原がガス中毒騒動を起こしていたがそれも覚えてない)。小室が政府の麻薬・覚せい剤撲滅キャンペーンソングを担当して「薬物乱用防止総理」に任命されたというニュースについて「なかなか強烈なジョークだな」とクラスメートと話していたような記憶は残っている。このキャンペーンソングは敬愛していたTMネットワーク(TMN)の復活曲でもあったが、その時にはTMも過去のものになっていた。

そしてそれから約20年経って、華原朋美の名前を偶然目にしたとき、20年以上前に「I BELIEVE」をミニマムファッションのスーツ姿で力強く歌っていた若き歌手の姿がなぜか鮮明に蘇ってきて、彼女のことを強烈に知りたくなった。はるか昔に置き忘れていたものが20年後に見つかったような感覚だった。少し時間をかけて小室哲哉がプロデュースした華原の3枚のアルバム「LOVE BRACE」「storytelling」「nine cubes」を聴き通し、華原と小室についての本にも目を通した。

華原朋美はその生き方も含め天性の歌手だと思った。高音を無理なく出せる身体能力の高さに加え、小室時代の華原は技巧的な不安定さが適度な不協和音を産みだしておりかえって魅力になっている。華原を歌手デビューさせた当時の小室の眼力の高さに改めて感心した。

同時にこの3つのアルバムが華原と小室の感情が生々しく氷結されていることにも驚いた。この3枚は日本の若者文化のひとつの絶頂期である90年代後半の社会と時間が生み出した強烈な恋愛文学でもあるとも感じた。。

小室と華原が切り結んだ関係を音楽的な見解から見事に表現した「まこりん」氏の記事がある。文章力も素晴らしい。この文章を書くきっかけになったので、ぜひ読んで欲しい

華原朋美 『LOVE BRACE』それは残酷な物語
http://wagamamakorin.client.jp/kahara.html

華原朋美 「nine cubes」―アルジャーノンは慈母だったのかも知れない
http://wagamamakorin.client.jp/ninecube.html

2017年現在データ配信も含めて廃盤になっている「nine cubes」が「J-POP史上の最凶の怪盤」や「伝説の超駄盤」と今でもネット上で時々話題になっているのも、このまこりん氏の記事の影響だと思っているが、このアルバムが華原を疎んじていた小室のただの手抜きの結果なのかというとそれだけではないような気がする。やはり、まこりん氏の言うように小室の意図というかむしろ執念や狂気さえも感じて、私はある意味傑作にもなっていると感じる。

1998年11月リリースの「nine cubes」。小室が華原に飽きていてレコード会社との契約の問題でいやいや出すのであれば、エースの安室奈美恵のアルバムでもやっていたように久保こーじをはじめとする弟子筋に制作を部分的に投げることだってできたはずだ(むしろそうだったらその後の華原の音楽活動にとっては良かったのかもしれない)。しかし、小室は華原については楽曲の全自作と完全プロデュースを貫いた。

このアルバムを聴いた者がまず感じるのは一発録り思わせる華原のヴォーカルの不安定さというか下手さだ。華原のヴォーカルの不安定さが若くて女性的な揺らぎにうまく調整されていた「LOVE BRACE」と同一歌手のものとは思えない。アルバムのクレジットではわざわざ”Vocal directed by”と入れているが、小室が担当しているのはシングルカットされた4曲目の「here we are」だけで、ほかの曲は華原の歌の収録に立ち会っていないようだ。しかし、この「here we are」でさえも、華原は最初のヴォーカルの入り方に失敗し、その後は音程を外しまくっている。華原がメロディを消化する前に歌っているため、特に低音では喉先で無理やり歌っている感じが強い。時々、苦しさをのぞかせる華原。特に最後のサビはもう唸り声とも言っていい。この曲はドラマのタイアップ曲であり、このアルバムでは一番の力作なのだがこの調子である。ほかの曲はもっとキツイ。(ちなみに華原はテレビの歌番組でもこの曲を歌っているが、テレビでの生歌の方が歌い方がはるかに安定している)

7曲目の「storytelling」は2枚目のアルバムのインストルメント曲とアートワークに掲載された詩を流用して歌曲にした(はっきり言って)手抜き曲だが、前半部はなぜか1970年代の時代劇などで多用されたような電子チェンバロの短調の退屈なソナタになっており不気味極まりない。1分程度経過して華原の夢遊病者のようなヴォーカルが入ってくるのだが、「さみしい顔みつけた あなたはきっと天才」とはじまる小室作の詩が最高に意味不明で無気力な空気を作り出す。廃墟の中で原子力電池作動の壊れた歌うマリオネットの華原の姿と、それをいつでも踏みつけられるような体勢で微笑んでいる小室先生の姿が浮かんでくるようで聴いている側に戦慄をもたらす。ライブでのピアノ演奏の些細なミスにもイラつく完璧主義者の小室が、なぜこの悪趣味な曲をつくってアルバムを入れた意図は何だったのだろう?もしからしたら天才音楽家として気まぐれにモーツァルトの「俺の尻をなめろ」のような狂気が入った駄曲を入れたくなったのかもしれない。この曲は昼間のファーストフード店など適度にノイズが入るところで聴いたほうがよい。日本のポピュラー音楽の巨匠である小室が自身の名前でリリースしたとのはにわかに信じられない無意味さを感じさせる曲であり、かつドストエフスキー「悪霊」のスタヴローキンがごときニヒリズムの世界に歌う人間と聴く人間を引き込む最凶曲でもある。

次の8曲目の「tumblin’ dice」は前曲の何百倍もましなデジタルロックの佳曲だが、「たあんぶうりんだあああいす!!」と絶叫する朋ちゃんは早速入り方を微妙に外しているのだが、修正されることなくずれは増幅していく。もともとこの曲は音程の設定がめちゃくちゃであり、小室先生の共犯アシストを受けながら朋ちゃんもやけくそ気味にヴォーカルを暴走させていくのだが、それがこの曲の場合は逆に少し魅力になっているのが不思議だ。華原が2001年のライブにもこの曲を取り上げられているのだが、バックの音が弱いせいもあるが、華原の歌い方が均されていて少し迫力に欠けるきらいがある。

実はこのアルバムの制作の様子が98年のTBSの「情熱大陸」に収録されている。忙しい小室が20日間L.A.のスタジオにこもって音楽制作をするのだが、まずの課題がこの華原の「nine cubes」である。映像に写っている小室はいたって真面目そうな様子なのだが、スタジオにグランドピアノを持ち込んでおり「このアルバムの制作の間に小室はピアノ曲の作曲に取りかかれるかもしれない」というナレーションが入り、華原のアルバムはまずやっつけたいビジネスだというニュアンスが伝わってくる。挿入される小室のインタビューで語られるのはピアノへの想いで「nine cubes」ではない。(ちなみにこのピアノソロは小室ブームが過ぎてから発売された)

小室は歌い手のためにまず自分で仮歌を収録するのが常だが、この映像でも最初は「モスキートボイス」とファンから愛されている小室独特のお腹に力が入っていないような男性のか細い歌声(あえて言うと大山版ドラえもんの「スネ夫」の声の張りを丸ごとスライスしたみたいな感じか)なのだが、「華原が歌いやすいように」とサンプリングして高い女性音にすると、それが音程を外しまくる華原の歌声にそっくりで「あっ!」という声を映像を観て出しそうなる。やはり華原が小室の仮歌をなぞった程度の通しテイクがアルバムに採録されたとしか思えない。

早朝にL.A.で完成した仮歌とサウンドトラックがISDN回線で華原がスタンバイしている午後8時の東京に送られる。ビジネス的な問題か、小室の心理的な問題か、いずれにせよこのアルバムが「やっつけ」仕事になっている心象はこの「情熱大陸」を見ても拭えない。

このアルバムの音楽的な価値は特に「LOVE BRACE」との対比で考えるとまこりん氏の論考になるのだと思うが、(1)締め切りかビジネス的な問題から小室が基本的に早く処理したがっていたこと(それまで小室期の華原のアルバムは発売延期を繰り返すのが常だった)(2)97年ごろから海外進出を意識して小室の音楽的指向に変化があり、J-POPの王道を行くメロディアスの楽曲よりもサウンドに凝ったマニアック路線に切り替えていた(3)小室がL.A.での活動の比重を置くようになって日本で活動するアーティストとのつながりが薄くなっていた(4)華原との個人的な関係悪化、などの複合要因によってこの世紀末的名作「nine cubes」が出来上がったと感じる。

(4)華原と小室の関係については芸能ゴシップしか情報源がないので、正確なことは一般人には何ともわからないが、自らの感情の持ち方や行き場が楽曲の出来にダイレクトに反映される芸術家小室哲哉の側面がこのアルバムにもあるように思う。

2曲目の“needs somebody’s love”には小室も直に見ていただろう精神的に破綻しつつある華原の描写、もしくは翌年ガス中毒騒動を起こす彼女の未来の予言のように思わせる歌詞があり聴く者を繰り返し戦慄させる。

“ビルの屋上の角に立ち
いろいろ想像して怖かった
結局愛なんてわからない
だんだん危険が嫌いになる
寂しい時に誰かを大切にしていいでしょう
うれしい時に誰かを抱きしめていいでしょう

Everybody needs somebody’s love
Everybody needs somebody’s love
私もこのまま何もわからないまま
あなたをずっーとずっーと必要としてゆくね”

この歌詞を華原に歌わせるあたり、小室の芸術家として(ある意味では正直な人としての)の一面を見る思いだ。単に華原との仕事をやっつけで行うであれば、ビーイング系楽曲的な最大公約数の心情を歌った歌詞のフレーズをちりばめてそつなく凡作として処理するなどしておけば良いのではと思うが、小室は華原への感情を隠そうとしない。それがこのアルバムをある意味の傑作に押し上げている。

小室が自身の分身とも言えるユニットであるglobeでも華原に対する感情を露わにさせた思われる楽曲がある。98年9月発売のシングルでその名も「Sa Yo Na Ra」。味わい深いロックバラードで、globeが90年代のTMNのようにロック路線の実験をおこなっていた時期の作品で、「wanna Be A Dreammaker 」からはじまる4連作シングルの第2弾として発売された。プロモーション・ビデオも悪夢をテーマに相互に引用しあう連作となっている。小室の中核ユニットだけあってさすがにこれらの楽曲の完成度は高く、華原の「nine cubes」の投げやり傾向で不安定・不完全な楽曲群と見事のコントラストを形成している。

この「Sa Yo Na Ra」の歌詞は一般的な別れの心情を表現しているようだが、小室作詞のTMネットワークの名曲「STILL LOVE HER」のような温かい心情はなく、虚無感が漂う。

“Today and tomorrow
すべて受け止めてわかった
Somebody
喧嘩もしたけれども
Lonely day
二度と会えないかもしれない
だけど 自由だけ残った

抜け殻のようにね”

もし、華原との関係をこの歌詞に投影するとしたら、小室側の心情を描いているようにも思える。

この曲のプロモーション・ビデオはよりはっきりとした華原への描写が入っている。

PVは食肉の解体作業の様子からはじまる。その後、連作のPVに共通する外国風のスーパーをぐるぐる回る描写になって、また食肉解体の描写に戻り、解体された動物の頭部が写し出される。そして、その後、スーパーをぐるぐる回る白馬が登場する。白馬は乗馬を愛する華原の象徴である。96年の「HEY!HEY!HEY!」でも華原が白馬に乗って入場するパフォーマンスが行われたほどだ。この後、ビニールに入った赤ちゃんの人形や人間の幼児、親子連れの描写が入り、また白馬が現れて、白いワンピースを来たモデル風の女性が現れる。白のワンピースは「I BELIEVE」と「I’m Proud」でも華原が着ている。その後、その白ワンピース女性とともに魚が現れ、魚と女性がサブリミナル的に交互に描写され、最終的に女性がグロテスクな半魚人になる。魚は小室が目にもしたくない苦手ものとしてTM時代から小室ブーム期まで繰り返しネタにされているもので、小室音楽ファンなら誰もが知っていることだ。

globe1998sep

「Sa Ya Na Ra」PVに登場する白馬。

このPVが小室の華原への感情と関係がないと言い訳するのはちょっと無理だろう。そして、小室は芸術家として自分の感情を作品の中で偽れない人間だともわかる。このPVから感じるのは小室の華原への激しい攻撃と拒絶の感情のように思える。(このPVは2017年現在公式に公開されていない)

基本的に97年以降、華原と小室の関係は悪化していき99年初頭に破綻が明らかになるのだが、ただ悪くなっているだけでなく、華原と小室が優れた音楽的パートナー同志であったことを再認識させる瞬間もあった。97年12月の小室の香港公演である。小室がTM時代から宿願としていた海外進出の重要なステップになるものでもあり、小室も気合が入っている。ライブの冒頭で流れるトランス楽曲は今聴いても色褪せていない。これは小室時代の華原にとっての唯一の本格的なライブ出演(歌番組では公衆の前に1、2曲を歌うことはたびたびあった)であり、彼女は公演のメインとして合計6曲を歌い、globeの代理として彼らの楽曲も歌っている。特に「I’m Proud」と「DEPARTURES」を歌っているときのオーラと存在感はこの記事でも言われているように、華原朋美(1974年生まれ)は小室哲哉にとって1974年から遣わされていたミューズだったのではなかったかとも思わせる。1974年は小室にとって特別の年であり、小室にブリティシュ・ロックの知識を授け決定的な影響を与えた1歳年上の親戚の少女と語らいながら音楽家になる決心をした。その時の思いは小室を音楽家の世界に導いたTM初期の名作「1974 (16光年の訪問者)」にもなっている。(香港公演の一部映像は「華原 DEPARTURES」「小室家族 中国」と検索するとネットでも観られる)

kahara1997dec

1997年12月の小室哲哉の香港公演に参加した華原。

小室にもいろいろ事情はあり華原にも問題はあったのだろうが、結果的に小室は恋人としても歌手としても華原を捨てた。実家に戻っていた華原は99年1月末にガス中毒騒動を起こす。華原は食事を作っていた途中の事故と弁明したが、家族が早期に発見しなければ中毒死していた可能性もあった。華原はこの時点で小室が大手芸能プロダクションなどに委託していたマネージメントもなくなっていたようで、華原はマスコミの前に精神的な崩壊の様子を晒すようになっていく。しかし、華原は休みながらも芸能活動を止めることはなく、99年7月に小室へのダイレクトなメッセージ曲「as A person」をリリースする。プロデュースは小室と敵意をもって競合するようになったエイベックス創業者の松浦勝人。松浦は小室にクラブミュージックの魅力を認識させた男であり、二人三脚で小室ブームを作り上げてきたが、97前半に小室と決別している。発売日は小室が復活させたTMNのシングル発売と同日に設定された。

“きっとどちらか まちがってる とかそんな簡単な話じゃなくて
私にはすべてを賭けた いちど限りの冒険だった
多分どんな人だって人として 人なりに人だから
ルールはルール ふたりだけの間にも 欠かせないものでしょ”

作詞は華原本人作である。全体的には小室へ悲しさや恨みをぶつける悲恋・復讐ソングのようだが、“私にはすべてを賭けた いちど限りの冒険だった”という一節は小室に見いだされて恋仲となり、彼を愛し、彼を信じて、絶頂と狂乱の中にあった当時の芸能界とテレビ界の中枢を1年そこらで一気に駆け上がった20代前半の女性としての華原の魂の叫びだろう。

華原は歌手デビュー以来、ほぼ完全に小室に囲われた存在だった。楽曲の提供・プロデュース、所属レコード会社との関係、マネージメント、スタイリング、ヘアメイク、テレビ局のブッキング、そしてメディアに映る彼女のイメージ全体もすべて小室と小室が委託した大手芸能プロダクションが手配したものだった。華原にはライブやファンクラブを通じて生のファンと交流して感触を確かめて活動に還元するという体験もなかった。小室に捨てられたときに、華原は大衆に公開された恋愛の破局による自身の精神崩壊と屈辱感と戦いながら、一方で小室ブーム後の冷たい嘲笑に迎えられる中で、歌手・芸能活動をほぼすべて一からやり直すという二面作戦を強いられた。99年から00年代までの小室ブームへの反動は根強く、他人の面前でTMネットワークを称賛して話すのが恥ずかしくて少し勇気がいる感じだったのを覚えている。

華原はプライドを捨てて新人芸能人枠のリアリティー番組「電波少年」に出演したりして、バラエティに寄って芸能人として復活していくが、2007年に私生活のトラブル・事務所のマネージャー辞任・ミュージカル出演によるオーバーワークも重なり、小室時代から始まったと思われる精神安定剤などの薬物オーバードースの悪弊が出て所属事務所を解雇された。その後、家族に助けられた華原は日本のイーディ・セジウィックにもならず一般人になることもなく、2012年末に芸能界に復帰した。

2017年の華原朋美は失恋ネタを引きずる痛いおバカな中年女性枠の芸能タレントとして切り捨てられることも多いのだが、私にとって華原朋美の姿は、フェリーニの「甘い生活」に出てくるオープンカーに乗る男に捨てられて花を持ちながら道を一人歩くエンマ、男に誘惑されて夜のローマを彷徨い歩く享楽的なシルヴィア、もしくは繁栄がもたらす究極の快楽と堕落の世界を体験して生還した「サテリコン」のエンコルピオのその後の姿にも重なる。

華原朋美という歌手を見ると、私には必ずマニッシュ+ミニマムファッションで迷いなく「I BELIEVE」を歌う姿が浮かび上がり、その時は約束されていたと思われる「1995年の夢」も頭によぎる。1995年は戦争終結から50年という節目の年であり、その後の日本社会の崩壊と変化を予兆させる阪神大震災とオウム事件が起きた年として広く記憶されている。

しかし、華原朋美をテレビで観ていたような世代の多くの人間にとって1995年は開放的な年だった。マイケル・ジャクソンが1992年にブカレストのライブで熱狂する旧共産圏の人たちの姿を見せつけてから、世界は和解してより良くなり、世界は一体になっていくという余韻が強く続いていた。夏にはウォン・カーワァイの「恋する惑星」が話題になり、第三諸国ではない新しいアジアの風が日本に吹き始めた。Windows 95が発売されてインターネットの存在が知られ始め、いつかネットワークの力で世界と人々はより一体になると思った。日本の球界を去った野茂英雄が名古屋の中日ドラゴンズではなくL.A.のドジャーズの勝利投手になった。バブル崩壊による日本企業の動揺によりサラリーマンは「リーマン」になり、会社に頼らない生き方が求められると思われた。「フリーター」はその時はまだ希望の言葉だった。街にはTSUTAYAができて気軽にメディアをレンタルができるようになった。街にはファミレスやファーストフード店が広がり、ポケベルやPHSという携帯通信端末を手に入れて、学生でも家に縛り付けられる必要はなくなった。仲間と一緒に情報収集しながら街を闊歩し、ビルの隙間にできた古着屋とショップをまわって自分の好きな服を買って、新しいスタイルを追い求めた。渋谷の文化は無印良品を通じて身近になった。バブルの豊かさが資産をもった背広の男たちから若い男女に降りてきたのはまさに1995年だったように思う。みんな背伸びしようとしていた。高いビルに住む人たちの世界にはヒビが入り揺らいでいたが、下の地を歩く人にとっては世界が広がっていく年だった。新しいものが古いものを陳腐化させていく、古いものがあって新しいものが本当に輝くことができた年が1995年だった。

1995年に現れた華原朋美が歌手として、90年代のファッションアイコンとして再評価される日はくるのだろうか?もしくは華原が自力で何かヒット曲を飛ばすのだろうか?それはよくわからない。しかし、彼女は何か天賦か運命か何かを与えられた人間のように思える。

彼女が小室から離れた後の歌手としてキャリアは順調とは言えないが、歌手としての成長を見せた曲がある。小室時代の良くも悪くも不安定な歌い方から安定した歌い方になり、彼女は優しさと温かさも表現できるようになった。

2006年の「」(アレンジは2005年のライブバージョンの評判がよい)。

2016年の「君がそばで」。
https://youtu.be/kBdgQsHGYbY

・・・

※この感想文は未完の状態でアップしました。ここで抜けているアルバム「LOVE BRACE」のレビュー記事などを後日アップしたいと思います。

2017年8月17日、下記の記事をアップしました。 
華原朋美『LOVE BRACE』―小室哲哉が描いた自己承認の物語(前編)

※この記事の曲名のリンクは原則iTunesストアかAmazonのURLへの通常リンクでアフェリエイトではありません。

※華原朋美はテレビの申し子の一人で、特に小室期の魅力はテレビ映像を見ないと伝わらないと思う。CD音源より生歌の方が上手いことが多いという歌手である(特に小室期後期)。ただ、残念なことに2017年現在、過去のテレビ映像の公式アーカイブを日本で観ることはできない。この記事のリンクは公式公開動画以外は自重しているが、ここで言及した歌番組・ライブ動画・プロモーション映像は動画検索で出てくる場合がある。

参考文献:
華原朋美「未来を信じて」(ワニブックス)・「苦あり楽あり」(ワニブックス)・「華原朋美を生きる」(集英社)
神山典士「小室哲哉 深層の美意識」(講談社)

参考URL:

2013年、第3次復帰直後の華原へのインタビュー。
http://www.billboard-japan.com/special/detail/660

2007年の活動中止までの華原朋美のシングル曲レビュー集。J-POPへの造詣が深い方が作成している。
http://blog.livedoor.jp/manseluconan/archives/53576063.html?p=2

松浦勝人が編集したエイベックスの社史であり日本音楽業界史の貴重な証言。全盛期の小室哲哉のビジネス的な環境を知ることができて面白い。第8章に華原についての言及もある。
http://ameblo.jp/maxmatsuura/entry-10021628435.html

TMファンが的確に編集した小室哲哉の詳細な音楽史。小室ファミリー全盛期時代の歴史も俯瞰できる。
http://s.webry.info/sp/tamanet.at.webry.info/201310/article_1.html

回想―3月11日

あっという間の1年だった。

1年前の午後2時46分、何かのルーチンワークを仕事場でしていた。
前日1年間ほど揉め続けていたある仕事の収束に目処をつけて、
緊張が和らいだせいからか精神的な疲れがじわりと出ていた頃だった。

あの大地震の揺れが起きた時、これはすごい地震が来た、関東か東海地域直撃の地震がついに来たのだと思った。

事務所はもろい構造だ。

大きいのが来たら、机の下なんかには逃げず、とにかく外に出るという意識がその事務所の人間にはあった。ノートパソコンで仕事をしている者はAC電源を引っこ抜いてそれを持ち出した。デスクトップで仕事をしている人間はバックアップハードディスクを引っこ抜いた。建物に2度と戻れないかもしれない。その瞬間に持ち出せる重要なものを持って、とにかく外に出よう―

20秒後には外には出ていた。建物にいた人が続々と外に出る。

何の障害もない道路上なのに、立っていることができない。

1分たっても揺れは続く。しかも強い。

事務所の向かいにある酒屋。ケースに積んでいた酒瓶が次々と落ちて割れていく。

子供がいる人が電話をしても全く通じない。

電話端末で揺れいている瞬間を携帯で動画撮影しようとも一瞬思ったが、それを実行する余裕はなかった。

Twitterのタイムラインを見ていると、仙台駅の新幹線ホームの電光掲示板が斜めにぶら下がっている写真が出てきた。東北で起こった地震だと気づいた瞬間だった。

揺れは断続的になってきた。揺れが収まったと思って事務所に戻るとまた揺れてパソコンを片手に外に飛び出すことを繰り返した。

近隣に住んでいる老女が2階の窓から下を眺めていた。

私が話しかけると、
“もう80歳近いし、身体も動かないから、死ぬなら自分で家で死ぬの”
と言って、救護の申し出も固辞し続けた。

鉄道がマヒしたのは確実だった。
1センチの積雪でもマヒするのだから、この大地震で回復するのはすぐじゃない。

小学生の子供を持つ同僚は気が気でなく、電話をしても通じない。
大通りでは路線バスがまだ生きていることに気づいた。
バスが生きている間にとにかく帰った方がいいということで、
私はその人の上長でもないのだがオーケーを出して、
その人はバスに飛び乗っていった。

揺れがようやく収まり、事務所に戻った。
社長とは連絡がとれず、同僚と話し合って各人の判断で帰っていいということになったが、帰れるアテもなく、物が散乱した事務所で片付けをしていた。

午後4時台、ネットではお台場のボヤなど東京の被害のニュースしか情報は上がっていなかった。

東北は以前も大型の地震があったので、それを上回る規模の地震なのだという程度の認識だった。

首都圏の交通が全てマヒしているということをテレビで確認して、帰れない前提で近所のスーパーにめぼしい食料品を買いに行った。
午後5時ぐらいだ。
その時は買い占めの情景はなかった。
人もまばらだった。
水、カップラーメン、チューブ型ゼリーを買って会社に戻った。

インターネツトは生きていたから、メールを使って仕事を再開した。
同僚がテレビを見ていたので、それを覗くと、
それは宮城の沿岸部で海の濁流がバイパスを飲み込む映像だった。
これはとんでもない惨事が起きているとはっきりと分かった瞬間だった。
その後に海水に飲まれる仙台空港の映像が出てきた。
もうそれは映画の映像ようで、現実感はあまりなかった。
午後6時ぐらいだった―

それから、新宿駅についたのは午後11時ごろだった。
地下鉄が再開したというニュースをきいて、帰ることを決めたのだった。

新宿に向かう道は新宿から吐き出された徒歩者で
朝の通勤時でも見ないような混雑だった。

新宿に差しかかる。
風俗店はいつものようにキャッチを続けていた。
吉野家には行列ができた。
不安なときは何かを食べないと。

新宿駅に着く。
JRは全く動かない。

改札にいた駅員が京王線が再開した旨を必死に乗客に案内していた姿が滑稽だった。

みどりの窓口はすべてシャッターが下ろされていた。
そのシャッターにヒステリックに運行見込なしの告知が張り付けてあった。

地方から来たらしき人が疲れたように座り込んでいた。
私はその人にチューブ型ゼリーを差し出そうとしたが、やはり止めた。
他の人が見ている中で、ある人にあげることにためらいがあるし、
自分のやることが偽善のように思えた。
そしてそのあと、この判断を強く後悔した。

地下鉄は信じらないほど混んでいた。
何とか乗った。
混雑に耐えられず、そして自宅の近くまで接近したのだから、
他の人にスペースを譲るために、最寄駅よりも手前の駅で降車した。

駅から地上に出ると、警察官の姿が目立った。
寒く、これから何が起きるかわからない不安感があった。

ホームレスらしき男性にチューブを差し出した。
彼は「何でこんなことをしてくれるんですか?」とためらったが、
結局チューブを渡した。

自宅にたどり着いて玄関を開けた。
部屋がどんな惨状になっているかと思っていたが、
洗面台においてあるボトルが一本倒れているだけで、
何も落ちていなかった。

実家の様子を確認した。
停止したガスメーターをまず回復させた。

「ヤシマ作戦」と称した節電のよびかけがネットで広がっていたので、
照明・暖房・パソコンの電源は入れなかった。

暗い部屋で風呂を沸かしながら、テレビを見た。

ニュース映像で気仙沼市の映像が映し出された。

暗くて何も見えない地平に炎が広がっていた。

とんでもないことが起きている―
そして、気仙沼の映像を見ながらとめどなく泣いた―

一年前のあの日、何か特別なことをしたわけではないけれど、
地震後の時間は今でも克明に覚えている。

日が明けても、不安感が抜けることはなかった。

仕事のトラブルの疲れもあったのか、翌日の土曜日から日曜日はほとんど何もせず、テレビもつけずに、布団の中から出ようとしなかった。
買い占めがはじまっていたが、参加する気力はない。暗く寒い部屋で、iPhoneのTwitterを見ながら過ごした。タイムラインは地震一色だった。

日曜日の夕方、明日出勤になるだろうということで、さすがに少し動く気になり、近所の酒屋でミネラルウォーターを買った。普段見向きもしないのに、こんな時だけ買いに来て悪いなと思いながら。

テレビをつけた。
しばらくして、東京電力の清水正孝社長の記者会見の映像になった。

マイクを持ちながら「これから着席させていただきます」と言うあたり、
日本企業の典型的なお偉いさんという感じだった。

青い作業着を着こんで、輪番停電の必要性を説明するあたりで、
人々の生活を握る電力を供給するインフラ会社のトップなのだという
権能感が全身からみなぎっているのを読み取れていた。

福島地方の原発に対しては、「全力で対処する」と一言触れただけだった。

それから3日後の15日の朝、東京電力福島第一原発の4号機と2号機が相次いで爆発した。
NHKの実況中継は水素爆発であり核爆発ではないことを解説者が連呼していた。
でも、チェルノブイリの爆発って水素爆発だろう?

僕は社長の携帯に電話をした。
彼は電話に出なかった。
不必要な出勤は必要なく、自宅での作業を選択できるようにして欲しいと留守電に吹き込んだ。
返信の電話はなかった。
同僚にも連絡をとっていたが、社長判断は示されなかったので、通常出勤した。

出勤して社長と会ったが、その話題は話さなかった。

その日の夕方、
社長は持ち前の勢いで、
「俺の知り合いで広島の被爆者がいるが、80歳を過ぎてもピンピンしている。
何だったら俺が福島第一にボランティアに行ってやる」
と、パニックを起こしている人たちに話しかけていた。

そして、それから波はあったけれど、通常が戻ってきた。

でも、あの地震は私を確実に変えた。
これまで無意識に寄りかかってきたものが、本当の修羅場では頼りにならないことがよくわかった。
それはとても重く、しかしながら僅かな開放感もあった。

私はそれから惰性でつきあってきたものから静かに撤退するように心がけている。

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