華原朋美『LOVE BRACE』―小室哲哉が描いた自己承認の物語(前編)

全権型音楽プロデューサーとして絶頂期を迎えていた小室哲哉、デビューからわずか半年あまりでミリオン歌手になった恋人の華原朋美。日本社会の若者文化の勢いが最高潮に達していた1996年夏にこのふたりはアルバムをリリースした。

当時37歳の小室はここに自身が持つ音楽的資産を全投入し、華原を題材に作詞家としての才能も開花させた。当時21歳だった華原もそれまでの人生と歌手としての優れた身体的素質のすべてを創作の素材として小室に提供している。

商業至上主義と当時から根強かった小室プロデュースへの批判と、スキャンダルとともにマスコミ・世間に過剰に消費され続けた小室・華原の芸能人イメージにより、このアルバムがシリアスな評価を受けることはあまり多くないように見える。

しかし、発売から20年以上経過してこのアルバムを聴くと、渋谷にいた少女のひとりだった華原朋美と、日本が高度成長を終えて先進国型社会になって「自分探し」に直面し始めた若者たちの肖像もそこに見えてくるのである。

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【アルバム情報】

“LOVE BRACE”

<アーティスト>華原朋美
<歌>華原朋美+小室哲哉
<演奏>ギター以外の楽器:小室哲哉/ギター:松尾和博
<マニュピレーター>小室哲哉/村上彰久
<ストリングアレンジ>Randy Waldman
<ミキシング>Keith Cohen
<プロデューサー>小室哲哉

<収録曲>

Track #1  LOVE BRACE (overture)   1:38
Track #2  Just a real love night  5:03
Track #3  keep yourself alive (more rock)  6:01
Track #4  Living on…!  4:48
Track #5  I BELIEVE (album earth mix)  6:47
Track #6  summer visit  6:06
Track #7  MOONLIGHT  4:12
Track #8  I’m proud (full version)  5:36
Track #9  Somebody loves you  5:45
Track #10  LOVE BRACE  6:53
Track #11  I BElIEVE (play piano)  4:14

全曲作詞・作曲・編曲:小室哲哉(#7のみ小室哲哉・華原朋美作詞)

<発売日>1996年6月3日
<レーベル>ORUMOK RECORDS
<発売元>パイオニアLDC
<累計売上枚数(2014年時点)>257.1万枚(1996年オリコン年間9位)
<オリコン週間チャート最高位>1位(通算2週)

【発売情報】

Itunes : https://itunes.apple.com/jp/album/love-brace/id178154022?app=itunes
レコチョク:http://recochoku.jp/album/A2000469626/
Amazon: http://amzn.asia/e26lvfe

【歌詞が流れをつくるアルバム】

このアルバムでは歌詞が時間の流れをつくっている。その流れを追うと、当時21歳だった華原朋美、そして小室哲哉が華原を通して見ていた90年代の若者の心象が目の前に流れてくる感覚になる。時間をオーディエンスに体験させることは音楽・映画・文学・絵画をはじめとする芸術・エンターテイメントの本質だが、このアルバムは歌詞によってつくられた文学とも言えると思う。

小室哲哉は発売当時からこの『LOVE BRACE』と先行シングルの“I’m proud”は歌詞に力を入れてきたと繰り替えし公言してきた。

このアルバムの発売直前、小室は盟友であり友人のTMネットワーク・木根尚登のラジオ番組に華原とともに出演した際に、木根にレコーディングで苦労したことについて聞かれてこう語っている。

“彼女の場合は、もうやっぱり僕としては詞なんですよ。もう本当に詞を大切にしてるつもりなんですよ。でも、最初の一曲目からやっぱり何気なくこういう話をしようかなとかではなくて、本当にそのままを、(華原から話を)全部を聞いて、でそれを自分で消化しきって、消化しきってやっと言葉が出てくるという感じだから、一曲に対する言葉の重みは自分としてはすごいある。・・・音はまあ、すごく生をたくさん使うようにして頑張ったんですけど、でも詞が一番大変でした、彼女の場合は。”
1996年5月22日放映・bayfm「ラジオのチカラ」より

小室が作る歌詞には聴き手によって様々な解釈があるが、このアルバムを聴きとおしていると、歌詞には当時のパートナー華原朋美だけでなく、彼女を通して20代前後の女性(男性を含めた「若者」と言ってもいい)にある普遍的な心理を描こうとしていると感じる。

華原朋美のシンデレラストーリーをラブストーリー仕立てにして世間の歓心を買おうとしただけのアルバムでは決してないことは確かである。

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アルバム『LOVE BRACE』のブックレットのイメージ写真より

【作詞家・小室哲哉】

小室哲哉が1983年に結成したユニット「TMネットワーク」。小室のキーボードのリフを核としたサウンドは当時の音楽シーンにおいては先鋭的な存在だったが、“Self Control”や“Get Wild”などのマイルストーンになった重要曲の多くは作詞家の小室みつ子(偶然、小室哲哉と同姓の、全く血縁のない女性作詞家である)によって担われていた。特にTMネットワークのファンには小室・木根・宇都宮隆に次いで、小室みつ子を第4のユニットメンバーのように見なす人も少なからずいたと記憶している。私は(ライトな)TMファンだったのだが、小室哲哉がプロデューサー業にシフトしてからtrfの楽曲などで詞を自作し始めても、小室の作詞には正直ピンと来なかったというTMファンは私だけではなかったはずである。

一方で、いわゆる93年以降の小室プロデュース期のファンには小室作の歌詞に思い入れがある人が多い。小室楽曲がカラオケでよく歌われるようになった影響も多いのだろうが、何より小室自身が詞を曲の中心に据えて曲作りをしていることが大きいのだろう。

小室哲哉は1998年発行の書籍に以下のように書いている。2010年以降の小室の発言とも一貫する内容である。

“プロデューサーとして魅力あるCDを提供するのに、なにが一番大切なのか。いま、マーケットはどんなことに反応するのか。僕は、CDを構成するあらゆる要素から、不必要なものを削ぎ落してみるという作業をしてみました。ジャケットの写真やデザイン、先端のリズム、凝ったアレンジ・・・次々と削ぎ落とす中で、残ったのはタイトルと歌詞でした。なんだ言葉か、と思われるかもしれません。でも、言葉にはテクニックや仕掛けでは成立しない力があるのです。僕の場合はテーマはひとつです。つかめそうでつかめないもの。ベースが恋愛でも友情でも、ぎりぎりのエッジの部分を描きます。これは一貫してかわりません。”
小室哲哉・中谷彰宏『プロデューサーは次を作る』(1998年、飛鳥新社刊)より

小室の基本はキーボディストでありコンポーサーである。TMネットワークの実質的なデビュー曲の『1974 (16光年の訪問者)』の歌詞は小室自身の人生も投影しているものであり、ラジオ局による新人コンテストではある程度完成させた小室自作の歌詞で演奏していたが、シングル化されるときは小室みつ子に歌詞の仕上げを任せている。小室自身も当時、サウンドが先に来て歌詞は後からのっけるものだったと振り返っており、作詞家としての本格的な模索は91年にTMネットワークを半仮眠状態にした頃からだと思われる。

小室はプロデュース活動をメインにしはじめた93年以降、ZARDやB’zをメガヒットさせていたビーインググループの手法にならい、テレビタイアップとカラオケ需要を取り込むことを意識した。メインターゲットは女性だった。男性の需要は女性によって誘導されるというのはバブル以降のマーケティングの常識になっていた。マニアックな要素も強かったTMネットワークでのセールスを乗り越えるヒットを生み出すには、女性しかもライトなマジョリティ層を取り込む必要があった。

小室哲哉は、91年からエイベックス創業者の松浦勝人と二人三脚でマーケットの開拓に努めていくが、当時の松浦の最大の使命はタイアップを取ることだったと松浦自身が司会するラジオ番組での小室との対談で振り返っている。創作する小室もタイアップを成功させるためにはクライアントや広告代理店の意向に柔軟に対応する必要があり、その時の要求に合わせて歌のフレーズを素早く・機動的に生み出し修正していくには詞を自作することが必要だった。

加えて、カラオケにおいて女性ユーザーが自作曲に自己投影する気にさせる意味でも、小室は歌詞を重要視して自作するようになっていた。小室が作詞の自作を本格化していったのはビジネス的な要素も大きい。

小室の詞で印象的なのは、言葉の展開の曖昧さ―ストーリー性を持ったイメージやフレーズの鋭さを感じさせる一方で節が起承転結のようなきれいな構成をもっているわけではなく、破綻や不均衡を感じさせながらも、切り取られた時間、そしてその時間の重なりが埋め込まれた歌詞が聴き手の中に浸透していく――のだが、このような詞は小室の言うところの「(聴き手が入り込みやすい)匿名性」や「(聴き手の自由な解釈を許す)のりしろ」をも持っている。

この歌詞の傾向は、小室が傾倒していたイギリスのロック音楽の歌詞にベースがあるように思われる。演歌が典型の日本の歌謡曲の歌詞ように、情景や心情をきれいに立て板に水を流すように描写するのではなく、シェイクスピアの戯曲のようにイメージが矛盾や二面性をはらみながらも拡散しつつも世界観を有機的に保っているような詞を目指していたように感じる。TKプロデュース時代、小室は曲づくりでベースとベースドラムのリズムパートも重視していたと思うが、イメージ拡散型のフレーズ配置は、このダンスミュージック型のリズム配置にも適合していた。

篠原涼子の94年夏のシングル「恋しさと せつなさと 心強さと」は小室初のダブルミリオンを達成し小室プロデュースの力を世間に見せつけたブレークスルーというだけでなく、めくるめくようなメロディー展開を持った90年代TKミュージックのショーケースのような曲である。この曲の歌詞を見れば、小室はビーイング系(特にZARDの)の最大公約数を満たしつつ前向きであり、女性の応援歌にもなるようなフレーズを意識していたことがわかる。

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94年5月、TMNとしてのラストライブでの小室哲哉。この時期に篠原涼子のデビューシングルも準備していた。

音楽シーンの中心に躍り出た小室は作詞傾向をさらに変化させていった。94年末から制作されたH Jungle with tの「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」では歌い手のは浜田雅功や小室自身を想像させるもので、言葉や情景を聴き手に刺すだけでなく、「人」を描き始めていたように思える。もしかしたら、当時の小室のチャート上の最大のライバルになっていたMr.Chilidrenの桜井和寿がつくる「聴く人に考える時間を求めてくる」フォークとロックが融合した歌詞に小室が刺激を受けていたのかもしれない。

この時期に小室が出会った女性が華原朋美だった。1995年のバレンタインデーに華原が告白してから小室との仲が深まったと2004年の鳥越俊太郎からのインタビューに華原が話している。ふたりの交流はそれ以前からあったと思われるが、小室と華原が本格的に交際開始したと思われる1995年2月ごろ、華原はまだ20歳の誕生日から半年程度が過ぎた女性だった。一方の小室は36歳であり1995年当時の社会的常識ではすでに中年の範疇に入る男性である。

小室は97年秋の近田春夫との対談で以下のように語っている。近田は90年代当時、小室の歌詞に着目していた数少ない音楽コラムニストでありミュージシャンでもあった。当時の音楽評論における小室の音楽への言説は「世界のTK」などと神輿を担ぐか無視するかの二択だったように思うが、近田は他のミュージシャンと並んで小室のプロデュース曲もフラットに扱っていた。少し長い引用だが小室の歌詞の変遷を知るには重要な発言である。

“小室哲哉: あるところから、そうですね。TMやってる頃は、自分が詞を書くとしたら、せいぜいそれこそアーサー・C・クラークとか、ああいったSFの世界、せいぜい中学生の時に読んでた本ってSFばっかりだったんで。

近田春夫: あ、SF好きだったんだ。

小室: SF好きだったんです。SFオタクですから、ほとんどSFばっかりで。

近田: 俺もけっこう好きだったな。

小室: そういう世界をきっとシンセの音と合う世界っていうのを日本語で考えたら、そういうとこなんだろうなと思ってて。そういうのを得意にしようとか、なんか勝手に踏んで決めてたんですね。で、ある時からですね。やっぱり華原やりだしてからですかね。

近田: え? そこらへんからなんだ?

小室: ええ、だと思いますけど。

近田: あ、そうなんだ。

小室: TRFの途中でもありますけど、TRFの途中でも「みんながカラオケとか歌う時に、なんか一言二言覚えてもらっときたいな」っていう言葉っていうのはあったりして。何曲かはあります。篠原涼子であったり、TRFの何曲かであったりっていうのはありますけど。本格的に詞をちゃんと完璧に、聴く女の子が最初から終りまでわかってもらうように考え出したのは、やっぱり朋美くらいからですね。

近田: ああ、そうなんだ。それは意外だったな。俺は、もっとなんか、もうちょっと前ぐらいから、そこの部分にすごいカッチリしたものがあるのかと思ってたんだけど。

小室: まだTRFであったり、そこらへんとかの時は、それは今お話した洋楽のエッセンスをどこまでなんて言うんですかね? 届くようにしとくかっていうか。全くなくなっちゃうと、やっぱりやってる意味がなくて、自分の中に。といって、あんまりそこまで歌詞考えちゃうとっていう、その戦いがあったんで。まあ、とにかく1~2行、1~2フレーズ残ればいいっていう感じだったんですけど。意外と吹っ切れたのは、そうですね、やっぱり朋美の作り出してからですね。”
1997年9月7日放映・フジテレビ「TK MUSIC CLAMP」より

その中に少女が残っている華原朋美と会話を交わす中で、小室は女性の視界から、女性としての言葉を書くようになっていく。trfや篠原涼子の曲も女性をターゲットにしているがそれはまだ三人称の世界に近い。浜田雅功や初期のglobeの曲の詞では一人称になりつつあるが、まだ視点が小室自身だったり男性の視線が残っている。華原の詞では視点は完全に華原であり、女性による一人称になった。この歌詞傾向が最初にまとまったかたちになったアルバムが『LOVE BRACE』であり、歌詞がつくる世界観の完成度という意味では小室プロデュースのアルバムの中でも最も完成度が高いものと思われる。

【渋谷を歩く少女だった華原朋美】

アルバム収録曲#3であり華原朋美のデビュー曲でもある「Keep yourself alive」。シングル版のプロモーションビデオのメイキング映像の冒頭で、小室哲哉はこう語っている。

“歌手なりその人が僕から見て世の中を映す鏡という基本的な考え方があるんですね。華原朋美というのも、やっぱり僕が非常に興味を持っているエリアというか世代であるとか、というところの生き写しというか…僕なんかの世代からは想像もつかないような生活であったりとか、それが日常だったりというのが、すごいいろいろ吸収できるわけですよ、彼女から。それをきいているうちに、あういう曲、あういう詞が、きいているうちにどんどん自分が情報を受け入れて、自分の中でかみ砕くうちに、あういう詞がでてきちゃったんですね”

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華原朋美について語る小室哲哉/「Keep yourself alive」PVより

90年代、小室は主に女性歌手に曲を提供していたが、彼女らと話を交わして歌詞のインスピレーションを得ていた。加えて、スタジオや会議室にターゲット層の10代後半から20代の一般の女性を集めて、彼女たちの生活スタイルや今何を考えているかをヒアリングすることをエイベックスのスタッフとともに繰り返し行っていた。

その中でも、インスピレーションの源泉という意味で、華原朋美の存在は当時の小室の中でも特異な存在だったと思われる。

東京と隣接する千葉県のベイエリアで生まれ育った華原は、徒歩圏で渋谷の中心街に行ける立地の中高一貫の私立女子高に通っていた。学校帰りに仲間とともに渋谷丸井前にたむろし、夜は仲間とともにカラオケボックスで盛り上がり、クラブにも出入りしていた。

渋谷は、70年代からあった輸入レコード店やクラブなどがつくるサブカルチャー文化と80年代からの渋谷パルコなどが牽引した消費文化の要素が融合して、華原が通った90年代前半には日本の若者文化にとっても特別な場所になっていった。

小室は2010年以降、90年代リバイバルの影響やTKブーム直撃世代が編集者になったためか、女性誌のインタビューに度々登場している。ミュージシャンの岡村靖幸との対談で「インスピレーションの源は?」と聞かれてこう語っている。

“いまは、(中田)ヤスタカが原宿だとよく言いますけど、僕は渋谷でした。すべてが渋谷。駅前のスクランブル交差点だったり、公園通りだったり。ただ、渋谷が舞台でも、描く場所を歌手ごとに変えてましたね。生息場所をわけるというか。たとえば、安室さんは“109前”とか渋谷の表側を意識して、華原さんは、渋谷の“内側”。円山町のクラブの近くのコンビニの前でしゃがんでるとかね(笑)。”
マガジンハウス「GINZA」2017年4月号より

当時、渋谷の街全体が若者カルチャーのスーパーマーケット状態になっており、多くの若者を引き付けていたが彼らの大部分は遠隔地からのビジターであった。

華原は2000年に出した自伝エッセイの『未来を信じて』で、
“高校生だった私は、学校が渋谷だったこともあって、学校の帰りによく友達と渋谷の街をブラブラしていました。BEAMSとかで買い物したりお茶したり”
と書いた後に、
“実はパー券を売っていたこともあったりして”
とさらりと付け加えているが、当時の渋谷で「パー券」(クラブで開催するパーティの券)を扱う側にいたというのは、都心部の付属高の学生たちもしくはチーマーきどりたちの、夜の渋谷を拠点に遊ぶ富裕層子弟たちの人脈の中に彼女もいたということなのだろう。華原は渋谷をベースに若者文化の光を思いっ切り浴びていた都市生活者だった。

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デビュー曲について語る華原朋美/「Keep yourself alive」PVより

芸術家が恋人から創作のインスピレーションを得ることは古来からよくあった。小室が華原を見出した時、小室はマリー=テレーズと出会った時のピカソのような気持ちだったのだろうか?マリー=テレーズは恋人兼モデルとして28歳年上のピカソに数多くの傑作を描かせた。いずれにせよ、華原との交際は、95-96年当時の小室にとって若者カルチャー=社会の中心に届く作品創作ための重要な源泉になっていたのは間違いないように思われる。

【1996年】

このアルバムが発売された1996年は少なくとも若者層にとっては、明るさと混乱、そして昭和の新興国的な社会とバブル後の先進国的な社会の空気が混在した過渡期的な時代だったように思う。以前の感想文にもその時代の空気について少し書いたが、1995年に日本の生産年齢人口がピークに達したように、人口動態的にも1996年時点で日本経済はまだ頂点期にいた。バブル経済は崩壊していたが、96年当時は不景気も景気循環の中のものという楽観論が主流であり、1998年以降のような経済的な閉塞感はまだ少なかった。

90年代中盤における10代後半から20歳前後の若者層の特徴は、それまでその年代の特権でもあったモラトリアム的な空間(大人の関与が少ないという意味で)が、社会の消費文化と情報化の進展で急速に市場化していったことだ。その典型例のひとつが小室ファミリー最大のカリスマである安室奈美恵にスタイリングされた厚底ブーツ+タータンチェックのショートスカートと脱色したヘアスタイル+細眉メイクが、メディアの力であっという間に全国の多数の女子高校生層に伝播したことだった。その彼女らを取り囲む、CD、プリクラ、PHS、カラオケなどのアイテムや娯楽も大人たちがお膳立てしたものである。これらを享受する女子高生をまたメディアや企業や大人が追いかけるというサイクルが95年から96年にかけての社会現象になった。

企業や市場が高校生をも放っておいてくれなくなっていた。若者が消費されるということはすでに70年代から進行していたらしいが、1980年代までは企業の消費ターゲットになっているは大学生までであり、90年代には高校生も消費対象になっていった。その辺りの考察は堀井憲一郎の『若者殺しの時代』(講談社新書)にも詳しい。

小室は正にメディアの力を使って女子高校生たちを市場化する立場の大人であったが、作詞家としてはこのようなことを考えていたらしい。

“当時、僕が一番気になっていたのは、一見元気でたくましく見える彼女たちが、ふと一人になった時、何を思うかということでした。
プリクラかカラオケが流行ったように、仲間や友達といる時の彼女たちはとても元気で楽しそうに見えた。でも集団から別れ、ふと一人になった時、凄まじい切なさや孤独を感じていたんじゃないかなぁと、僕はそれが気になっていました”
新潮社「ROLa」2013年11月号より

「孤独」は90年代後半から2000年代前半までの小室の歌詞におけるメインテーマである。この発言は小室ファミリーフリークを公言する社会学者の古市憲寿との対談で出たものだ。

プロデューサーとしての小室哲哉が卓越していたのは、この時代の人間像を複数の女性歌手に分散して投影してポートフォリオを形成していたことだ。この対談でも各歌手に投影したイメージを語っている。

“93年からプロデュースした篠原涼子ちゃんには、「不良性を歌う実験をしてもらいました」…(中略)…95年から手がけた安室奈美恵ちゃんには、積極的で楽観的な「不良性」を体現してもらいました。思い切りがよく、一歩踏み出すエネルギーのある女の子…(中略)…一方で華原さんは、「いつ間にか逸脱してしまった女の子」を想定していました。元々普通の女の子なのに、意図せず規律の外に出てしまった子。「どうせ自分なんて」とため息をつき、自分に自信が持てない。そんな女の子の切なさ、やり切れなさを表現したかったんです”
同新潮社「ROLa」2013年11月号より

加えて、小室はglobeのKEIKOには地方から都市に出てきた社会経験のある女性像を投影していた。

小室のポートフォリオにおける華原の役割は、カリスマの安室奈美恵が積極的でメインストリームに乗っている女性像が投影されていたの対して、メインストリームに乗れない中で自己承認を求めて葛藤する女性像を当てられていたように感じるのである。

96年はメディアの力もあって、若者、特に女子高生が社会文化の中心にいた時代であるが、音楽業界的にももっとも勢いのあった年であったようだ。電通総研の調査によると96年に音楽業界の総売上が推計2兆4001億円で史上最高値を達成している。これは、同96年にカラオケの業界売上が史上最高の1兆2980億円という驚異的な規模に達したことが大きい。98年以降は日本経済の衰退傾向がはっきりしてムードが変わり、カラオケ市場は縮小し、パッケージCDは大物ミュージシャンのベスト盤リリースの連発で規模を持ちこたえるようになる。

音楽業界が幸せだった96年、数多くの優れたアルバムがリリースされた。サニーデイ・サービス『東京』、Mr.Children『深海』などは今でも多くの人に支持されている名盤だと思うが、この『LOVE BRACE』も完成度・普遍性・時代を象徴しているという意味でそれらに十分対抗できる価値を持っている。ただ、小室哲哉と華原朋美がスキャンダルとともにメディアで過剰に消費され続けたため、『LOVE BRACE』から多くのリスナーが遠ざかって行ったのも事実だろう。

【公開恋愛ショーに足を踏み入れたプロデューサーと歌手】

華原朋美の歌手デビューは波乱含みでスタートした。小室哲哉は華原朋美と交際を始めたであろう95年2月以降、小室は華原を歌手としてデビューさせるため、バラエティアイドルとして台頭しつつあった華原(95年前半までの芸名は遠峯ありさ)を芸能界から徐々にフェイドアウトさせていく。一方で、桑田佳祐とMr.Childrenの共演で話題になったフジテレビのゴールデンウィークのイベント「LIVE UFO 95’」では、小室プロデュースを懸けたアイドル・ドッジボール大会で華原を優勝させるという歌手デビューへの仕込みも行っていた。

エイベックスの松浦勝人が、華原同様にアイドル活動の下積みを行っていた浜崎あゆみを1年間ニューヨークに滞在させて、新生アーティストとして生まれ変わらせるロンダリング期間を設けたように、小室も華原をしばらく芸能活動からは遠ざけて時間を作ろうと思っていたようである。しかし、95年6月、講談社の「フライデー」が二人の交際を派手にスクープしたため事態は一変する。小室はスクープされたとき、この危機をチャンスに変える発想で、「フライデー」には友好的な態度をとって交際をオープンにし、スクープを追いかけた他誌の取材も拒絶しなかった。その後、同じ講談社の報道雑誌に取材連載(これは『小室哲哉 深層の美意識』として単行本化された)を許可するなどのバーター取引的な対応もしている。

華原のデビューは前倒しされ、96年8月の小室主催のライブイベント「”95 TK DANCE CAMP」で小室ファミリーとしてのお披露目を終えていた安室奈美恵に先んじて、同年9月8日「Keep yourself alive」でCDデビューを果たした。

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華原朋美のデビューを紹介する95年の雑誌記事

この時期、ふたりの恋人関係や結婚の噂を報じるマスコミの取材攻勢に対抗するため、小室はマスコミ対策にも実績がある大手芸能プロダクションとの提携も踏み切った。ただ、マスコミの報道を要所で水際で抑えることはできても、取材攻勢自体はその後も止むことはない。「I’m Proud」のレコーディングとプロモーション・ビデオ撮影のためふたりが渡米した96年2月には早くも破局説が雑誌や夕刊紙を中心に報道されていった。

小室が『LOVE BRACE』の制作に尋常でない情熱を注いだのも、これらのマスコミと世間からのスキャンダラス的な視点に対して音楽家として対抗心・反抗心をむき出にしていった結果という要素も考えられるだろう。

小室は『LOVE BRACE』と「I’m Proud」を振り返ってこう語っている。

“自分の中で、アルバムプロデュースという意味では、「I’m Proud」が入っている『LOVE BRACE』というアルバムが一番好きでしたね。最初の一音から最後の一音まで、とても大事につくった作品です。まさにタイトル通りプライドをかけていたアルバムですね。でも、このぐらいから世の中的には、楽曲よりも楽曲以外のネタで騒がれることが増えてきてしまったんですよ・・・・・。でも、そういった風潮に絶対に負けたくなかったんですね。音楽でちゃんと応えたかった。”
ぴあMOOK「TM NETWORK 30TH ANNIVERSARY SPECIAL ISSUE 小室哲哉ぴあ TK編 」より

デビューから一カ月後の2ndシングル「I BELIEVE」が大ヒットしたことにより、華原は音楽アーティストとしての訓練や実地経験期間がほとんどないまま(他の小室ファミリーの仮歌はよく歌っていたらしいが)、トップアーティストとしていきなり音楽界の中心に躍り出た。このジェットコースターに乗るようなアクロバティックな状況は華原に相当なストレスを与えていた。昼夜逆転の生活、多忙なスケジュール、取材攻勢から逃れるため自宅やホテルに閉じこもるようになった華原はこの頃から睡眠薬にも頼るようになり、「不健康な生活」が始まっていたと2013年からのテレビとラジオ番組でも回顧している。

小室が「I BELIEVE」「I’m Proud」と名付けた楽曲をそんな華原に歌わせていたが、そのタイル通りに華原を曲を通じて励ます意味もあったのだろう。少なくとも96年当時の華原はそう受け取って曲を歌っていたと当時の雑誌のインタビューで述べている。

『LOVE BRACE』はマスコミに追いかけられる公開恋愛ショーに投入されて、そこでの風評を乗り越える実績をつくらないと、ただのよくある業界の大物と愛人という水物の物語で終わるという追い込まれた状況の中で、ふたりがつくった作品でもあるのだ。

【制作】

このアルバムは96年4月から5月にかけて、約1カ月強をかけてレコーディングされた。400万枚を超える驚異的なセールスをあげたglobeのファーストアルバム『globe』(96年3月発売)がわずか10日間の強行スケジュールでレコーディングされたのに比べれば恵まれたスケジュールだった。小室は「1曲収録するごとに1キロ体重が減る」、華原は「24時間音楽だけだった」と当時のラジオ番組で語っており、相当熱の入ったレコーディングだったのだろう。小室による歌唱への要求も高く、華原は幾度となく泣きながら歌入れをしていたという。

アルバムタイトルの『LOVE BRACE』はカルティエのスレッドと呼ばれるバングル(2017年現在廃盤)がモチーフになっている。パートナーにネジ止めしてもらう前提のいわゆるラブ・ブレスレットの一種だ。華原いわく「​小室さんから(ブレスレットを)もらった時にファーストアルバムの名前になったらいいなあと小室さんに呟いたら、本当にそうなった」ということらしい。

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ふたつのリングをイメージしたアルバム『LOVE BRACE』のCM

同名の収録曲「LOVE BRACE」はアルバム曲で一番最初に完成したが、大切に歌いたいという華原の希望で一番最後に収録された。華原は「I’m Proud」の小室による第1稿目の歌詞にダメ出しするなど、全体として小室は華原の意向をかなり組み入れてアルバムを制作している。また華原が歌唱のイメージを得られやすいように、#6の「summer visit」は三浦半島の海辺にある観音崎スタジオで歌入れを行ったりと、華原の歌唱力を引き出すための環境が整えられていた。

【『LOVE BRACE』が描いてるもの】

歌詞に着目しながら『LOVE BRACE』を通して聴いているとこのアルバムにはふたりの主人公がいるように見えてくる。ひとりはもちろん華原朋美自身で、もうひとりは小室が華原を通して見ようとしていた渋谷を歩くような都市に生きる女性―もしくは若者(たち)である。

このふたつの人物像を軸に描かれているのは、当時華原が持て囃されていたようなシンデレラ・ストリーでは決してない。歌詞カードを読み通せば、それは一目瞭然である。このアルバムでは華原を含む女性・若者の内面的な葛藤が描かれている。そして、そこに流れる時間は少女・子どもだった人間が大人になっていく瞬間をとらえているのだ。ハッピーエンドの予定調和でストーリーが終わるわけではない。そういう意味でこのアルバムの本質は恋物語であるよりも若者の内面的な自己形成を描く教養小説(ビルドゥングス・ロマン)に近い。

この物語の主人公は常に不安と戦っている。愛に恵まれてそれを享受し希望に胸を膨らませる瞬間もあるが、その次にはまた不安と戦う時間がめぐってくる。この不安は自己承認を得られる対象が不安定だったり見えなかったりするため、葛藤は終わることなく続いていく。

バブル社会を経た90年代の中盤からの若者の水面下で進行していたのは「自分が肯定できるような自分を肯定するものが欲しい」という自己承認欲求と自分探しの流れである。もちろん自己承認欲求の動きは昔から若者層にあったが、90年代からの日本の若者層に特徴的なのは自己承認欲求を達成する対象がよく見えないし、自分で見つける必要があったことだと思える。

1960年代も若者の時代だったが、この時は大人がつくった社会規範と共同体が岩盤のように強固に存在していて構造ははっきり見えていた。それらに対抗するだけでも運動になり、またそこに入っていくのもパワーを必要としたから、多くの人々はそこから自己承認も得られていたのではと60年代当時の人たちの証言や小説・映画に接しても思うところだ。

このアルバムには確かに「愛」が描かれている。しかし、それは強固で確固たるイデア的なようのものには思えない。それは正に小室が表現した「つかめそうでつかめない」ようなものだ。当時の多くの若者が自分探しの中で得ようとしていた夢・希望・理想のようなものと同じく愛も不安定で流動的で安心を得られるものではない。だから、それを求める自己承認欲求者は絶えず不安の中にいる。しかし、小室哲哉は作家として時代の観察者として、その不安定なものの中にこそ愛の本質があり永遠的なものを見ていたように気がしてならない。

後編につづく。

・・・・・・

【参考リンク】

・基礎情報については2017年2月7日の感想文の下部にあるリンク一覧をご覧ください。

https://iidabashiueno.wordpress.com/2017/02/07/kahala1995/

・ローリングストーン日本版による小室哲哉へのインタビュー。globeを基軸に90年代から2010年代へ続く小室の世界観や歌詞への考え方を垣間見られる。

(前編)「小室哲哉インタヴュー 前編:globeが歌う「孤独」、妻KEIKO、結成秘話を語る」
http://rollingstonejapan.com/articles/detail/25217

(後編)「小室哲哉インタヴュー 後編:今もしKEIKOが歌えたら、歌ってもらいたいことが山ほどある」
http://rollingstonejapan.com/articles/detail/25218

・『LOVE BRACE』期の小室哲哉のマネージャーだった伊東宏晃氏(現 エイベックス・マネジメント社長)のインタビュー。全盛期の小室を支えたスタッフたちのアクロバティックな状況が伺い知れる。デビューから97年中盤まで華原の活動の基礎を支えたのもエイベックスの人材だった。

Musicman-net インタビュー 「第143回 伊東 宏晃 氏 エイベックス・マネジメント株式会社 代表取締役社長」
https://www.musicman-net.com/relay/63294

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循環する人類の夢 ヨハン・ヨハンソン『フォードランディア』 

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アイルランドの音楽家、ヨハン・ヨハンソン(Jóhann Jóhannsson)は「ポスト・クラシカル」のパイオニアとして日本では認知されていると思う。この音楽家を知ったのは2008年12月で、BBC Radio 3の「Late Junction」で、ナビゲーターのFiona Talkingtonが15分あまりの交響・エレクトロニカ曲『Fordlandia』を通しでかけてくれたおかげである。

この『Fordlandia』は、同名のクラシックとテクノとロックが融合したインストゥルメント曲アルバム『フォードランディア(Fordlandia)』収録第1曲目である。北極圏の空のように、透明で、自分や人間が生きること、そして死ぬことまでに思いを馳せてしまうような、そういった力を持った曲をきいて、次の日にはCDを探しにタワーレコード新宿に走った記憶がある。

朝や昼にこの曲を聴くと本当に脱力するのだが、夜に聴くと不思議に心が穏やかになるような感じを受ける。

この曲に感銘を受けたあまり、このアルバムのテーマになった自動車王ヘンリー・フォードがブラジルに造成した理想都市フォードランディアについて、限界のある英語力で情報を集めてあるところに投稿したりもした。

2008年時点では英語での情報も断片的だったと思うが、それ以降英語でまとまった情報の記事も公開されている。ただ、日本語の情報はまだ少ないので、当時調べたことを以下に再掲したいと思う。

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「フォードランディア」はフォード創業者のヘンリー・フォードがアマゾンの密林に造成したプランテーション都市。

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1920年代、フォードはタイヤ製造のための天然ゴム資源が、アジア植民地を持つイギリスとオランダに依存をすることを嫌い、ブラジルのアマゾン地域に約2万5000平方メートル(新潟県と秋田県の合計面積とだいたい同じ)の土地を購入し、自前のゴムプランテーションをつくることを決意した。

フォードは欧州人のように現地人を使用人として搾取して労働させるのではなく、“フォード社員”として労働させることを目指した。フォードは現地人に高額な報酬を支払う代わりに、アメリカ的な“健康的な生活”を送るよう要求した。

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密林の中にアメリカ文化に基づいて一戸建て住宅がつくられ、病院、図書館や商店が並び、フォード車が走れるように道路も完備された。フォードはフォードランディア内での飲酒・喫煙は禁止し、現地労働者にハンバーガーなどのアメリカ式の食事を提供した。休日には詩の朗読、ダンス大会、英語楽曲の合唱など、清廉なアメリカ人が好む催しが開催された。

フォードは植物学の専門家ではなく、フォードの技術者によってゴム栽培を行うとしたが、栽培は苦戦続きだった。栽培地は丘陵地帯で、地質は岩石質だった。苗は育たちにくく、育っても白葉枯病に脅かされた。

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灼熱の太陽を避けるため、現地社会では日没から夜明けまでを活動時間としていたが、フォードは9時-17時の労働時間を強制した。現地文化にあわない習慣の強要は、現地労働者の不満を蓄積させ、1930年労働者による暴動が発生し、鎮圧のためブラジル軍が投入される事態になった。

しかし、フォードはあきらめず、新たに栽培に適した平地を購入し、「ベルテラ」というプランテーション都市を造成した。フォードの労働者と技術者たちはゴム栽培のための努力を続けたが、1942年時点で、3万8000トンの生産目標に対し、わずか750トンの生産しか達成できなかった。

「ベルテラ」造成期に合成ゴムの研究開発が完成し、1945年にフォードはついにブラジルでのプランテーション放棄を決意する。「戦争での経験から、我々は天然ゴムより合成ゴムの方が商品生産に適していることを学んだ」という見解を発表し、現在の物価を基準とすると約2億ドルの損失を計上して、ブラジル政府に土地を売却した。

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フォードの放棄後、ブラジル政府は僻地にある2つの造成地にある近代施設の維持には興味を示さず、廃墟となった。廃墟は現在、アマゾンの観光ツアーのオプションの一つとなっている。また、プランテーション耕地の多くは農作物の栽培地になっている。

ヘンリー・フォードは、自動車の大量生産技術を確立しただけでなく、従業員に当時高価だったT型フォードを買える水準の報酬を支払うなど、アメリカの大衆消費社会成立に貢献した人物でもあった。フォーランディアが人々の興味をそそるのは、フォードが、その地にプランテーションという自然破壊だけでなく、それを前提にして生まれる豊かなアメリカ社会を持ち込もうとして、そして失敗したからだろう。

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Amazon(輸入盤):
http://amzn.asia/i84xNDX

iTunes:
https://itunes.apple.com/us/album/fordl%C3%A2ndia-bonus-track-version/id293921148
※iTunesではメインの第1曲目『Fordlandia』の単体購入はできない。

ヘンリー・フォードが造成した理想都市フォードランディアについての記事:
https://www.theguardian.com/cities/2016/aug/19/lost-cities-10-fordlandia-failure-henry-ford-amazon

1995年のシンデレラ、華原朋美を振り返る

1995年の秋、ダウンタウンが司会する歌番組「HEY!HEY!HEY!」で歌手の華原朋美を初めて観たときの印象は今でもよく覚えている。当時ダウンタウンが出演する番組はすべて観ていた。華原はまだあどけなさが残る女性だったが、彼女はマニッシュが入ったミニマムスタイルの黒のスーツとパンツスタイルだった。当時の女性歌手はスーツ姿で歌うことも時折あったが、それはステージ用でありいかにも芸能人用と感じさせるものがほとんどだった。そういう衣装を着ないと特別感が出ないということだと思う。しかし、彼女は女性誌のファッション・スナップから抜け出したような黒スーツ姿だった。モデルのような細すぎる体形でもなく、整形顔でもなく、品のいい美人のお嬢様がこれから歌いますという感じである。この番組では歌手がパフォーマンス前にダウンタウンからフリートークでいじられるのが通例だったが、華原の受け答えは芸能人らしさはなく幼い素人のようだった。しかし、その不安定さにダウンタウンの松本人志も浜田雅功もノリノリで競うように突っ込みを入れ続けた。

彼女が歌いだしたのが「I BELIEVE」だ。
歌詞の“Anytime I believe”という英語詞の活舌が悪く舌足らずだけど、
それがかえって魅力的と思ったことが強く印象に残っている。

“輝く白い 恋の始まりは
とてもはるか 遠く昔のこと
Anytime I believe your smile
どんなときでも あなたの笑顔捜してた
Anytime I believe your love
ずっと前から あなたをきっと見ていた

Give me a Chance! Give me a Jump!
これからの未来へ向かう戦い!
Give you a Speed! Give you a Power!
生意気な態度も時にはUSE!

冬の街凍えてた 寒い夜を憎んでいた
愛を語るより 温もりだけ ほんの少し欲しい日もある”

これから社会に挑戦するあるひとりの女性の姿と不安や孤独感を隠せず愛を求める女性像を描いた詞が入れ子のように交差する詞である。

彼女の歌声の音程は安定しておらず技巧的に成熟していなかったが、豊富な声量と伸びる高音を無理なく出していて、これからの歌手としての大成を感じさせていて魅力的だった。受け答えもたどたどしい女性が、ステージに一度立つとスイッチが入って力強く歌い始める。そのギャップが彼女の魅力のように思えた。

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1995年冬、本格的なテレビデビュー期の華原朋美。

「I BELIEVE」に魅力を感じたがシングルCDを買うことはなかった。学生でお金があまりなかったということがあったが、交際相手である華原朋美をプロデュースして恋人の歌手として公衆に宣伝する小室哲哉への反発がブレーキをかけ、「どんなに魅力的でも悪魔に魂は売らない」とでも思っているような感じだった。

※ミニマムスタイルの華原のスタイリングは全盛期の木村拓哉、その後EXILEやE-girlも担当した野口強とその師で日本のスタイリストの草分けであるで大久保篤志がディレクションしている。その他、「I BELIEVE」のプロモーション映像(白のワンピース)のスタイリングは当時「Olive」などで活躍していたソニアパークが担当している。

(下はデビュー時の華原のマニッシュなスタインリングの雰囲気をよく伝える「keep yourself alive 」のシングルのジャケット)

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音楽家として、日本のキーボードプレイヤーのパイオニアとしての小室哲哉は敬愛していた(今でもそうだが)。日本のポップスやロック音楽は英米のそれと比べて、「音の厚さ」がおおよそ3割から5割薄いことが多いように感じていた。1980年代のアイドル歌謡曲のバックバンド演奏がその典型だった。しかし、小室哲哉が結成した「TMネットワーク」は英米ものに比べても「音の厚さ」が十分にあり、サウンドのキレもあり、同時期の英米のサウンドとのタイムラグも少なかった。

SELF CONTROL」「humansystem」のようにキーボード・ギター・ベース・ドラムのシンプルな基本編成でもリズムを刻むだけの無駄な音楽空間がない。演奏者の技量の高さもあるが、TMの音楽設計者である小室はヴォーカルのメロディーとサウンドのリフを組み合わせる設計能力に非常に優れていた。洋楽志向だった私が唯一追っかけていた日本の音楽だった。

小室哲哉は90年代前半からTMネットワークでの活動に力を入れなくなり、ソロ活動やほかのミュージシャンとの共演に力を入れ始めた。TMネットワークはデュラン・デュランなどのイギリスの「ニューロマンティック」の系譜を引き継ぐプログレ・ロックの東洋における末裔だった。90年代はじめにはその路線からハードロック路線の実験を行って、TMは休止に向かいつつ、小室はクラブミュージックに傾倒していく。93年に自分としては高額商品だった2枚組約6000円のTMネットワークのベスト盤を購入して、全曲がクラブ調にサンプリングされているのを聴いてがっくりしていたものだ。

1995年ごろは音楽もファッションも良くも悪くも混沌としていて、選択肢も多く、また古いものと新しいものが交差する転換期だった。小室哲哉はやや玄人志向のTMネットワークの音楽を捨てて、メディアで大量露出してカラオケボックスで歌われることを狙った音楽を大量生産するようになった。サーファー系のパーティー文化を意識したtrfを成功させた。それから、ダウンタウンのお笑いコントに出演して汚れ役もいとわなかった準メジャーアイドルの篠原涼子、明らかに歌手として素養がないような感じのダウンタウンの浜田雅功を小室はプロデュースと楽曲の力でミリオン歌手にしてから、世間から驚異的な存在として認知されはじめていた。

当時は小沢健二とスチャダラパーの「今夜はブギーバック」を称賛することはあっても、メディアに煽られた小室音楽を少し冷笑交じりに観察している人間のひとりだった。「今夜はブギーバック」は若者だけでつくった音楽を自分たちで楽しむという悦びが溢れている曲だ。騒がしいパーティーの部屋から抜け出して、踊り場のソファーに腰かけながら仲間と話し込んでいるような居心地の良さがあった。一方、小室音楽はCMやドラマのタイアップを前提にテレビ局や広告代理店の背広の人間とともに作り上げており、カラオケボックスで女子学生や女子会社員がマイクを持ちながら歌詞が映し出したモニターとにらめっこしているのがその情景である。基本女性の歌い手によるハイキーで技巧を排したストレートな力押しのボーカルを分厚い4つ打ちのサウンドが支える構造で「私でも頑張ればノリノリの歌を歌える」と思わせることを狙っているようだった。

その翌年1996年の春、華原朋美は「I’m Proud」を歌いだした。華原朋美は前年より女らしさを強調し、衣装もスーツからワンピース姿になった。成功した女性がスーツ姿から着替えなおし、高級なホテルの中に佇んでいるような姿だった。

華原朋美は小室音楽だけでなく日本音楽界における文字通りのシンデレラになった。しかし、「I BELIEVE」ときのようには感心はしなかった。むしろそこはかとなく不安を感じた。

“Lonely 壊れそうで崩れそな情熱を
つなぎとめる何か いつも捜し続けてた
I’m proud いつからか自分を誇れる様に
なってきたのはきっと あなたに会えた夜から
声にならなくても想いが時には伝わらなくても
笑顔も泣き顔も全てみんな かならずあなたに知ってもらうの
…I’m proud”

「“崩れそな”って、母音省略するのか」という疑問と
「これって女が男に征服されて性交する瞬間の心理でしょう」
という感想が歌番組の歌詞テロップを見て浮かんだものだ。
それは当時マスコミを賑わせていた「誰にも迷惑をかけないから援助交際する女子高生」の成就の瞬間をも連想させて少し気味悪かった。華原と小室の年齢差は16歳である。

同時期、小室音楽のエースだった安室奈美恵がストリートに出て生きる女性として(同性の)仲間とともに喜びと悲しみを共有する曲を歌いあげているとは対照的に、華原は当時まだ残っていた男性との結婚を自己現実の最終目標とする女性の恋愛至上主義を歌っていたように思った。「I’m Proud」が収録されたアルバム「LOVE BRACE」のアートワーク写真は当時話題になった。華原朋美が顔を小室に埋め、カメラ目線になる小室哲哉の構図は1960年代からアメリカのフェミニストたちがメディアにおける男性上位主義の典型としてよく批判対象としていたものだった。

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この年、華原は小室と年末の紅白歌合戦でともに「I’m Proud」を歌い、二人は交際を公然とする態度をNHKの大晦日の伝統番組でも貫き、広く国民に交際宣言をおこなった。私も含め「さすがにこれは来年、結婚するんだな」と思った人は多かっただろう。同時に私は二人の姿が紅白でも何となく浮いているような感じがした。本物の恋愛をこれほど公衆にオープンにするのものだろうか?シンデレラ・ストーリーをつくるためのビジネス恋愛なのだろうか?TM時代から貴公子然として女(アイドル)好きを隠そうとしない小室がこのあどけない女性に本当に満足するのか?嫉妬や悪意にこの「恋愛」が潰されないだろうか?様々な小さな疑問が何とくなく浮かんでいった。

そして、不安は徐々に的中していく。華原は注目度が上がるにつれて上品なお嬢様像から良くも悪くも幼児性を隠さない女性像にシフトしていった。

シンデレラだった華原の異変を私なりに実感したのは「HEY!HEY!HEY!」でのダウンタウンとのトークだった。出演するゲストミュージシャンがダウンタウンとトークするとき、特に松本人志が前のめりでツッコミを入れるゲストとそうでないゲストがいて、デビュー当初の華原は銀のスプーンを持った天然お嬢様キャラとして、小室ネタなどで松本に燃料を投下できるリアクションをしていた。松本・浜田雅功が競ってツッコミを入れていたが、ある時から華原のリアクションに子どもっぽい無理やり感が出てきてすべりはじめ、松本は軽く流して、時々が浜田がキレる流れに変わったと気になったことがあった。

音楽面でも、華原ファンや恐らく華原自身も小室に期待していた、華原の高音の歌声が生きるメロディアスなアップテンポな曲ではなく、突拍子もないデジタルロックの曲か暗いメランコリックな曲を当てられるようになり、華原も無理に歌っている感じが強くなった。しかし、歌詞も含めて不気味に女性(華原)が男性(小室)に依存するというスタイルは変わらなかった。

音楽界の帝王だった小室が華原に飽きて持て余していることは徐々に明白になっていった。華原朋美はトークで退屈なやり取りを続けるか突然突拍子のないことを叫んだりすることが多くなり、幼児性も突破して頭が少しイカレている(が美人でシンデレラのため許される)女性だとみなされるようになった。

97年、すでに小室は華原だけでなく栄華を極めている自分の音楽活動にも早くも飽きがきているのではと感じさせた。小室はおおよそ3年単位で音楽の嗜好を変えていくのはTM時代から感じてきたことだ。この年、L.A.に拠点として活動する姿がメディアに盛んに露出されていった。音楽番組とともに歌い手と出ることは少なくなり、盛んに小室の海外進出の話が言われるようになった。一方で、オーディション番組の「ASAYAN」で、L.A.のスタジオからの高見から延々と若い女性歌手の発掘に執着する小室の姿に少し失望感を感じていたものだ。

97年の紅白歌合戦に華原朋美と安室奈美恵が出場した。華原朋美の歌唱も見ていたはずだと思うが印象はほとんど残っていない。この年の紅白は結婚・妊娠により休業する安室奈美恵のためのものだった。トリで出てきた安室は20歳にして音楽界の頂点に立った歌手として「CAN YOU CELEBRATE?」を歌った。結婚により人気絶頂で引退した70年代のスーパースター山口百恵とは違い、安室はあくまでも一時休業でありその後の復帰を安室は公言していた。会場も視聴者も、結婚後も仕事を続けるという新しい女性の花道を心より祝福していた。

私はこれを見て、この栄光の瞬間を期に安室と小室音楽を「卒業」する人も多いのではと思った。事実、98年以降、小室がヒット曲を出す回数は目に見えて減少していった。そして、同時に「この曲は華原朋美が本来歌うはずなんじゃないのか?」とも感じていた。

98年、私はテレビを見続けていたはずだが、華原朋美の印象は薄くなっていた。華原が素っ頓狂なコミカルソングを歌っているのを見て「華原に篠原ともえスタイルで歌わせるなんて、(華原を放り出した後でも)バラエティー路線でも通用するように小室先生は修行させてるのかな」と思ったぐらいだ(今振り返ると華原が98年紅白で「daily news」を歌っていた姿のような気がする)。

99年は自分もバイトなどで忙しくなってテレビもあまり観なくなり、華原も小室のこともほとんど視界に入らなくなった(この年のはじめに華原がガス中毒騒動を起こしていたがそれも覚えてない)。小室が政府の麻薬・覚せい剤撲滅キャンペーンソングを担当して「薬物乱用防止総理」に任命されたというニュースについて「なかなか強烈なジョークだな」とクラスメートと話していたような記憶は残っている。このキャンペーンソングは敬愛していたTMネットワーク(TMN)の復活曲でもあったが、その時にはTMも過去のものになっていた。

そしてそれから約20年経って、華原朋美の名前を偶然目にしたとき、20年以上前に「I BELIEVE」をミニマムファッションのスーツ姿で力強く歌っていた若き歌手の姿がなぜか鮮明に蘇ってきて、彼女のことを強烈に知りたくなった。はるか昔に置き忘れていたものが20年後に見つかったような感覚だった。少し時間をかけて小室哲哉がプロデュースした華原の3枚のアルバム「LOVE BRACE」「storytelling」「nine cubes」を聴き通し、華原と小室についての本にも目を通した。

華原朋美はその生き方も含め天性の歌手だと思った。高音を無理なく出せる身体能力の高さに加え、小室時代の華原は技巧的な不安定さが適度な不協和音を産みだしておりかえって魅力になっている。華原を歌手デビューさせた当時の小室の眼力の高さに改めて感心した。

同時にこの3つのアルバムが華原と小室の感情が生々しく氷結されていることにも驚いた。この3枚は日本の若者文化のひとつの絶頂期である90年代後半の社会と時間が生み出した強烈な恋愛文学でもあるとも感じた。。

小室と華原が切り結んだ関係を音楽的な見解から見事に表現した「まこりん」氏の記事がある。文章力も素晴らしい。この文章を書くきっかけになったので、ぜひ読んで欲しい

華原朋美 『LOVE BRACE』それは残酷な物語
http://wagamamakorin.client.jp/kahara.html

華原朋美 「nine cubes」―アルジャーノンは慈母だったのかも知れない
http://wagamamakorin.client.jp/ninecube.html

2017年現在データ配信も含めて廃盤になっている「nine cubes」が「J-POP史上の最凶の怪盤」や「伝説の超駄盤」と今でもネット上で時々話題になっているのも、このまこりん氏の記事の影響だと思っているが、このアルバムが華原を疎んじていた小室のただの手抜きの結果なのかというとそれだけではないような気がする。やはり、まこりん氏の言うように小室の意図というかむしろ執念や狂気さえも感じて、私はある意味傑作にもなっていると感じる。

1998年11月リリースの「nine cubes」。小室が華原に飽きていてレコード会社との契約の問題でいやいや出すのであれば、エースの安室奈美恵のアルバムでもやっていたように久保こーじをはじめとする弟子筋に制作を部分的に投げることだってできたはずだ(むしろそうだったらその後の華原の音楽活動にとっては良かったのかもしれない)。しかし、小室は華原については楽曲の全自作と完全プロデュースを貫いた。

このアルバムを聴いた者がまず感じるのは一発録り思わせる華原のヴォーカルの不安定さというか下手さだ。華原のヴォーカルの不安定さが若くて女性的な揺らぎにうまく調整されていた「LOVE BRACE」と同一歌手のものとは思えない。アルバムのクレジットではわざわざ”Vocal directed by”と入れているが、小室が担当しているのはシングルカットされた4曲目の「here we are」だけで、ほかの曲は華原の歌の収録に立ち会っていないようだ。しかし、この「here we are」でさえも、華原は最初のヴォーカルの入り方に失敗し、その後は音程を外しまくっている。華原がメロディを消化する前に歌っているため、特に低音では喉先で無理やり歌っている感じが強い。時々、苦しさをのぞかせる華原。特に最後のサビはもう唸り声とも言っていい。この曲はドラマのタイアップ曲であり、このアルバムでは一番の力作なのだがこの調子である。ほかの曲はもっとキツイ。(ちなみに華原はテレビの歌番組でもこの曲を歌っているが、テレビでの生歌の方が歌い方がはるかに安定している)

7曲目の「storytelling」は2枚目のアルバムのインストルメント曲とアートワークに掲載された詩を流用して歌曲にした(はっきり言って)手抜き曲だが、前半部はなぜか1970年代の時代劇などで多用されたような電子チェンバロの短調の退屈なソナタになっており不気味極まりない。1分程度経過して華原の夢遊病者のようなヴォーカルが入ってくるのだが、「さみしい顔みつけた あなたはきっと天才」とはじまる小室作の詩が最高に意味不明で無気力な空気を作り出す。廃墟の中で原子力電池作動の壊れた歌うマリオネットの華原の姿と、それをいつでも踏みつけられるような体勢で微笑んでいる小室先生の姿が浮かんでくるようで聴いている側に戦慄をもたらす。ライブでのピアノ演奏の些細なミスにもイラつく完璧主義者の小室が、なぜこの悪趣味な曲をつくってアルバムを入れた意図は何だったのだろう?もしからしたら天才音楽家として気まぐれにモーツァルトの「俺の尻をなめろ」のような狂気が入った駄曲を入れたくなったのかもしれない。この曲は昼間のファーストフード店など適度にノイズが入るところで聴いたほうがよい。日本のポピュラー音楽の巨匠である小室が自身の名前でリリースしたとのはにわかに信じられない無意味さを感じさせる曲であり、かつドストエフスキー「悪霊」のスタヴローキンがごときニヒリズムの世界に歌う人間と聴く人間を引き込む最凶曲でもある。

次の8曲目の「tumblin’ dice」は前曲の何百倍もましなデジタルロックの佳曲だが、「たあんぶうりんだあああいす!!」と絶叫する朋ちゃんは早速入り方を微妙に外しているのだが、修正されることなくずれは増幅していく。もともとこの曲は音程の設定がめちゃくちゃであり、小室先生の共犯アシストを受けながら朋ちゃんもやけくそ気味にヴォーカルを暴走させていくのだが、それがこの曲の場合は逆に少し魅力になっているのが不思議だ。華原が2001年のライブにもこの曲を取り上げられているのだが、バックの音が弱いせいもあるが、華原の歌い方が均されていて少し迫力に欠けるきらいがある。

実はこのアルバムの制作の様子が98年のTBSの「情熱大陸」に収録されている。忙しい小室が20日間L.A.のスタジオにこもって音楽制作をするのだが、まずの課題がこの華原の「nine cubes」である。映像に写っている小室はいたって真面目そうな様子なのだが、スタジオにグランドピアノを持ち込んでおり「このアルバムの制作の間に小室はピアノ曲の作曲に取りかかれるかもしれない」というナレーションが入り、華原のアルバムはまずやっつけたいビジネスだというニュアンスが伝わってくる。挿入される小室のインタビューで語られるのはピアノへの想いで「nine cubes」ではない。(ちなみにこのピアノソロは小室ブームが過ぎてから発売された)

小室は歌い手のためにまず自分で仮歌を収録するのが常だが、この映像でも最初は「モスキートボイス」とファンから愛されている小室独特のお腹に力が入っていないような男性のか細い歌声(あえて言うと大山版ドラえもんの「スネ夫」の声の張りを丸ごとスライスしたみたいな感じか)なのだが、「華原が歌いやすいように」とサンプリングして高い女性音にすると、それが音程を外しまくる華原の歌声にそっくりで「あっ!」という声を映像を観て出しそうなる。やはり華原が小室の仮歌をなぞった程度の通しテイクがアルバムに採録されたとしか思えない。

早朝にL.A.で完成した仮歌とサウンドトラックがISDN回線で華原がスタンバイしている午後8時の東京に送られる。ビジネス的な問題か、小室の心理的な問題か、いずれにせよこのアルバムが「やっつけ」仕事になっている心象はこの「情熱大陸」を見ても拭えない。

このアルバムの音楽的な価値は特に「LOVE BRACE」との対比で考えるとまこりん氏の論考になるのだと思うが、(1)締め切りかビジネス的な問題から小室が基本的に早く処理したがっていたこと(それまで小室期の華原のアルバムは発売延期を繰り返すのが常だった)(2)97年ごろから海外進出を意識して小室の音楽的指向に変化があり、J-POPの王道を行くメロディアスの楽曲よりもサウンドに凝ったマニアック路線に切り替えていた(3)小室がL.A.での活動の比重を置くようになって日本で活動するアーティストとのつながりが薄くなっていた(4)華原との個人的な関係悪化、などの複合要因によってこの世紀末的名作「nine cubes」が出来上がったと感じる。

(4)華原と小室の関係については芸能ゴシップしか情報源がないので、正確なことは一般人には何ともわからないが、自らの感情の持ち方や行き場が楽曲の出来にダイレクトに反映される芸術家小室哲哉の側面がこのアルバムにもあるように思う。

2曲目の“needs somebody’s love”には小室も直に見ていただろう精神的に破綻しつつある華原の描写、もしくは翌年ガス中毒騒動を起こす彼女の未来の予言のように思わせる歌詞があり聴く者を繰り返し戦慄させる。

“ビルの屋上の角に立ち
いろいろ想像して怖かった
結局愛なんてわからない
だんだん危険が嫌いになる
寂しい時に誰かを大切にしていいでしょう
うれしい時に誰かを抱きしめていいでしょう

Everybody needs somebody’s love
Everybody needs somebody’s love
私もこのまま何もわからないまま
あなたをずっーとずっーと必要としてゆくね”

この歌詞を華原に歌わせるあたり、小室の芸術家として(ある意味では正直な人としての)の一面を見る思いだ。単に華原との仕事をやっつけで行うであれば、ビーイング系楽曲的な最大公約数の心情を歌った歌詞のフレーズをちりばめてそつなく凡作として処理するなどしておけば良いのではと思うが、小室は華原への感情を隠そうとしない。それがこのアルバムをある意味の傑作に押し上げている。

小室が自身の分身とも言えるユニットであるglobeでも華原に対する感情を露わにさせた思われる楽曲がある。98年9月発売のシングルでその名も「Sa Yo Na Ra」。味わい深いロックバラードで、globeが90年代のTMNのようにロック路線の実験をおこなっていた時期の作品で、「wanna Be A Dreammaker 」からはじまる4連作シングルの第2弾として発売された。プロモーション・ビデオも悪夢をテーマに相互に引用しあう連作となっている。小室の中核ユニットだけあってさすがにこれらの楽曲の完成度は高く、華原の「nine cubes」の投げやり傾向で不安定・不完全な楽曲群と見事のコントラストを形成している。

この「Sa Yo Na Ra」の歌詞は一般的な別れの心情を表現しているようだが、小室作詞のTMネットワークの名曲「STILL LOVE HER」のような温かい心情はなく、虚無感が漂う。

“Today and tomorrow
すべて受け止めてわかった
Somebody
喧嘩もしたけれども
Lonely day
二度と会えないかもしれない
だけど 自由だけ残った

抜け殻のようにね”

もし、華原との関係をこの歌詞に投影するとしたら、小室側の心情を描いているようにも思える。

この曲のプロモーション・ビデオはよりはっきりとした華原への描写が入っている。

PVは食肉の解体作業の様子からはじまる。その後、連作のPVに共通する外国風のスーパーをぐるぐる回る描写になって、また食肉解体の描写に戻り、解体された動物の頭部が写し出される。そして、その後、スーパーをぐるぐる回る白馬が登場する。白馬は乗馬を愛する華原の象徴である。96年の「HEY!HEY!HEY!」でも華原が白馬に乗って入場するパフォーマンスが行われたほどだ。この後、ビニールに入った赤ちゃんの人形や人間の幼児、親子連れの描写が入り、また白馬が現れて、白いワンピースを来たモデル風の女性が現れる。白のワンピースは「I BELIEVE」と「I’m Proud」でも華原が着ている。その後、その白ワンピース女性とともに魚が現れ、魚と女性がサブリミナル的に交互に描写され、最終的に女性がグロテスクな半魚人になる。魚は小室が目にもしたくない苦手ものとしてTM時代から小室ブーム期まで繰り返しネタにされているもので、小室音楽ファンなら誰もが知っていることだ。

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「Sa Ya Na Ra」PVに登場する白馬。

このPVが小室の華原への感情と関係がないと言い訳するのはちょっと無理だろう。そして、小室は芸術家として自分の感情を作品の中で偽れない人間だともわかる。このPVから感じるのは小室の華原への激しい攻撃と拒絶の感情のように思える。(このPVは2017年現在公式に公開されていない)

基本的に97年以降、華原と小室の関係は悪化していき99年初頭に破綻が明らかになるのだが、ただ悪くなっているだけでなく、華原と小室が優れた音楽的パートナー同志であったことを再認識させる瞬間もあった。97年12月の小室の香港公演である。小室がTM時代から宿願としていた海外進出の重要なステップになるものでもあり、小室も気合が入っている。ライブの冒頭で流れるトランス楽曲は今聴いても色褪せていない。これは小室時代の華原にとっての唯一の本格的なライブ出演(歌番組では公衆の前に1、2曲を歌うことはたびたびあった)であり、彼女は公演のメインとして合計6曲を歌い、globeの代理として彼らの楽曲も歌っている。特に「I’m Proud」と「DEPARTURES」を歌っているときのオーラと存在感はこの記事でも言われているように、華原朋美(1974年生まれ)は小室哲哉にとって1974年から遣わされていたミューズだったのではなかったかとも思わせる。1974年は小室にとって特別の年であり、小室にブリティシュ・ロックの知識を授け決定的な影響を与えた1歳年上の親戚の少女と語らいながら音楽家になる決心をした。その時の思いは小室を音楽家の世界に導いたTM初期の名作「1974 (16光年の訪問者)」にもなっている。(香港公演の一部映像は「華原 DEPARTURES」「小室家族 中国」と検索するとネットでも観られる)

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1997年12月の小室哲哉の香港公演に参加した華原。

小室にもいろいろ事情はあり華原にも問題はあったのだろうが、結果的に小室は恋人としても歌手としても華原を捨てた。実家に戻っていた華原は99年1月末にガス中毒騒動を起こす。華原は食事を作っていた途中の事故と弁明したが、家族が早期に発見しなければ中毒死していた可能性もあった。華原はこの時点で小室が大手芸能プロダクションなどに委託していたマネージメントもなくなっていたようで、華原はマスコミの前に精神的な崩壊の様子を晒すようになっていく。しかし、華原は休みながらも芸能活動を止めることはなく、99年7月に小室へのダイレクトなメッセージ曲「as A person」をリリースする。プロデュースは小室と敵意をもって競合するようになったエイベックス創業者の松浦勝人。松浦は小室にクラブミュージックの魅力を認識させた男であり、二人三脚で小室ブームを作り上げてきたが、97前半に小室と決別している。発売日は小室が復活させたTMNのシングル発売と同日に設定された。

“きっとどちらか まちがってる とかそんな簡単な話じゃなくて
私にはすべてを賭けた いちど限りの冒険だった
多分どんな人だって人として 人なりに人だから
ルールはルール ふたりだけの間にも 欠かせないものでしょ”

作詞は華原本人作である。全体的には小室へ悲しさや恨みをぶつける悲恋・復讐ソングのようだが、“私にはすべてを賭けた いちど限りの冒険だった”という一節は小室に見いだされて恋仲となり、彼を愛し、彼を信じて、絶頂と狂乱の中にあった当時の芸能界とテレビ界の中枢を1年そこらで一気に駆け上がった20代前半の女性としての華原の魂の叫びだろう。

華原は歌手デビュー以来、ほぼ完全に小室に囲われた存在だった。楽曲の提供・プロデュース、所属レコード会社との関係、マネージメント、スタイリング、ヘアメイク、テレビ局のブッキング、そしてメディアに映る彼女のイメージ全体もすべて小室と小室が委託した大手芸能プロダクションが手配したものだった。華原にはライブやファンクラブを通じて生のファンと交流して感触を確かめて活動に還元するという体験もなかった。小室に捨てられたときに、華原は大衆に公開された恋愛の破局による自身の精神崩壊と屈辱感と戦いながら、一方で小室ブーム後の冷たい嘲笑に迎えられる中で、歌手・芸能活動をほぼすべて一からやり直すという二面作戦を強いられた。99年から00年代までの小室ブームへの反動は根強く、他人の面前でTMネットワークを称賛して話すのが恥ずかしくて少し勇気がいる感じだったのを覚えている。

華原はプライドを捨てて新人芸能人枠のリアリティー番組「電波少年」に出演したりして、バラエティに寄って芸能人として復活していくが、2007年に私生活のトラブル・事務所のマネージャー辞任・ミュージカル出演によるオーバーワークも重なり、小室時代から始まったと思われる精神安定剤などの薬物オーバードースの悪弊が出て所属事務所を解雇された。その後、家族に助けられた華原は日本のイーディ・セジウィックにもならず一般人になることもなく、2012年末に芸能界に復帰した。

2017年の華原朋美は失恋ネタを引きずる痛いおバカな中年女性枠の芸能タレントとして切り捨てられることも多いのだが、私にとって華原朋美の姿は、フェリーニの「甘い生活」に出てくるオープンカーに乗る男に捨てられて花を持ちながら道を一人歩くエンマ、男に誘惑されて夜のローマを彷徨い歩く享楽的なシルヴィア、もしくは繁栄がもたらす究極の快楽と堕落の世界を体験して生還した「サテリコン」のエンコルピオのその後の姿にも重なる。

華原朋美という歌手を見ると、私には必ずマニッシュ+ミニマムファッションで迷いなく「I BELIEVE」を歌う姿が浮かび上がり、その時は約束されていたと思われる「1995年の夢」も頭によぎる。1995年は戦争終結から50年という節目の年であり、その後の日本社会の崩壊と変化を予兆させる阪神大震災とオウム事件が起きた年として広く記憶されている。

しかし、華原朋美をテレビで観ていたような世代の多くの人間にとって1995年は開放的な年だった。マイケル・ジャクソンが1992年にブカレストのライブで熱狂する旧共産圏の人たちの姿を見せつけてから、世界は和解してより良くなり、世界は一体になっていくという余韻が強く続いていた。夏にはウォン・カーワァイの「恋する惑星」が話題になり、第三諸国ではない新しいアジアの風が日本に吹き始めた。Windows 95が発売されてインターネットの存在が知られ始め、いつかネットワークの力で世界と人々はより一体になると思った。日本の球界を去った野茂英雄が名古屋の中日ドラゴンズではなくL.A.のドジャーズの勝利投手になった。バブル崩壊による日本企業の動揺によりサラリーマンは「リーマン」になり、会社に頼らない生き方が求められると思われた。「フリーター」はその時はまだ希望の言葉だった。街にはTSUTAYAができて気軽にメディアをレンタルができるようになった。街にはファミレスやファーストフード店が広がり、ポケベルやPHSという携帯通信端末を手に入れて、学生でも家に縛り付けられる必要はなくなった。仲間と一緒に情報収集しながら街を闊歩し、ビルの隙間にできた古着屋とショップをまわって自分の好きな服を買って、新しいスタイルを追い求めた。渋谷の文化は無印良品を通じて身近になった。バブルの豊かさが資産をもった背広の男たちから若い男女に降りてきたのはまさに1995年だったように思う。みんな背伸びしようとしていた。高いビルに住む人たちの世界にはヒビが入り揺らいでいたが、下の地を歩く人にとっては世界が広がっていく年だった。新しいものが古いものを陳腐化させていく、古いものがあって新しいものが本当に輝くことができた年が1995年だった。

1995年に現れた華原朋美が歌手として、90年代のファッションアイコンとして再評価される日はくるのだろうか?もしくは華原が自力で何かヒット曲を飛ばすのだろうか?それはよくわからない。しかし、彼女は何か天賦か運命か何かを与えられた人間のように思える。

彼女が小室から離れた後の歌手としてキャリアは順調とは言えないが、歌手としての成長を見せた曲がある。小室時代の良くも悪くも不安定な歌い方から安定した歌い方になり、彼女は優しさと温かさも表現できるようになった。

2006年の「」(アレンジは2005年のライブバージョンの評判がよい)。

2016年の「君がそばで」。
https://youtu.be/kBdgQsHGYbY

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※この感想文は未完の状態でアップしました。ここで抜けているアルバム「LOVE BRACE」のレビュー記事などを後日アップしたいと思います。

2017年8月17日、下記の記事をアップしました。 
華原朋美『LOVE BRACE』―小室哲哉が描いた自己承認の物語(前編)

※この記事の曲名のリンクは原則iTunesストアかAmazonのURLへの通常リンクでアフェリエイトではありません。

※華原朋美はテレビの申し子の一人で、特に小室期の魅力はテレビ映像を見ないと伝わらないと思う。CD音源より生歌の方が上手いことが多いという歌手である(特に小室期後期)。ただ、残念なことに2017年現在、過去のテレビ映像の公式アーカイブを日本で観ることはできない。この記事のリンクは公式公開動画以外は自重しているが、ここで言及した歌番組・ライブ動画・プロモーション映像は動画検索で出てくる場合がある。

参考文献:
華原朋美「未来を信じて」(ワニブックス)・「苦あり楽あり」(ワニブックス)・「華原朋美を生きる」(集英社)
神山典士「小室哲哉 深層の美意識」(講談社)

参考URL:

2013年、第3次復帰直後の華原へのインタビュー。
http://www.billboard-japan.com/special/detail/660

2007年の活動中止までの華原朋美のシングル曲レビュー集。J-POPへの造詣が深い方が作成している。
http://blog.livedoor.jp/manseluconan/archives/53576063.html?p=2

松浦勝人が編集したエイベックスの社史であり日本音楽業界史の貴重な証言。全盛期の小室哲哉のビジネス的な環境を知ることができて面白い。第8章に華原についての言及もある。
http://ameblo.jp/maxmatsuura/entry-10021628435.html

TMファンが的確に編集した小室哲哉の詳細な音楽史。小室ファミリー全盛期時代の歴史も俯瞰できる。
http://s.webry.info/sp/tamanet.at.webry.info/201310/article_1.html