循環する人類の夢 ヨハン・ヨハンソン『フォードランディア』 

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アイルランドの音楽家、ヨハン・ヨハンソン(Jóhann Jóhannsson)は「ポスト・クラシカル」のパイオニアとして日本では認知されていると思う。この音楽家を知ったのは2008年12月で、BBC Radio 3の「Late Junction」で、ナビゲーターのFiona Talkingtonが15分あまりの交響・エレクトロニカ曲『Fordlandia』を通しでかけてくれたおかげである。

この『Fordlandia』は、同名のクラシックとテクノとロックが融合したインストゥルメント曲アルバム『フォードランディア(Fordlandia)』収録第1曲目である。北極圏の空のように、透明で、自分や人間が生きること、そして死ぬことまでに思いを馳せてしまうような、そういった力を持った曲をきいて、次の日にはCDを探しにタワーレコード新宿に走った記憶がある。

朝や昼にこの曲を聴くと本当に脱力するのだが、夜に聴くと不思議に心が穏やかになるような感じを受ける。

この曲に感銘を受けたあまり、このアルバムのテーマになった自動車王ヘンリー・フォードがブラジルに造成した理想都市フォードランディアについて、限界のある英語力で情報を集めてあるところに投稿したりもした。

2008年時点では英語での情報も断片的だったと思うが、それ以降英語でまとまった情報の記事も公開されている。ただ、日本語の情報はまだ少ないので、当時調べたことを以下に再掲したいと思う。

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「フォードランディア」はフォード創業者のヘンリー・フォードがアマゾンの密林に造成したプランテーション都市。

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1920代、フォードはタイヤ製造のための天然ゴム資源が、アジア植民地を持つイギリスとオランダに依存をすることを嫌い、ブラジルのアマゾン地域に約2万5000平方メートル(新潟県と秋田県の合計面積とだいたい同じ)の土地を購入し、自前のゴムプランテーションをつくることを決意した。

フォードは欧州人のように現地人を使用人として搾取して労働させるのではなく、“フォード社員”として労働させることを目指した。フォードは現地人に高額な報酬を支払う代わりに、アメリカ的な“健康的な生活”を送るよう要求した。

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密林の中にアメリカ文化に基づいて一戸建て住宅がつくられ、病院、図書館や商店が並び、フォード車が走れるように道路も完備された。フォードはフォードランディア内での飲酒・喫煙は禁止し、現地労働者にハンバーガーなどのアメリカ式の食事を提供した。休日には詩の朗読、ダンス大会、英語楽曲の合唱など、清廉なアメリカ人が好む催しが開催された。

フォードは植物学の専門家ではなく、フォードの技術者によってゴム栽培を行うとしたが、栽培は苦戦続きだった。栽培地は丘陵地帯で、地質は岩石質だった。苗は育たちにくく、育っても白葉枯病に脅かされた。

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灼熱の太陽を避けるため、現地社会では日没から夜明けまでを活動時間としていたが、フォードは9時-17時の労働時間を強制した。現地文化にあわない習慣の強要は、現地労働者の不満を蓄積させ、1930年労働者による暴動が発生し、鎮圧のためブラジル軍が投入される事態になった。

しかし、フォードはあきらめず、新たに栽培に適した平地を購入し、「ベルテラ」というプランテーション都市を造成した。フォードの労働者と技術者たちはゴム栽培のための努力を続けたが、1942年時点で、3万8000トンの生産目標に対し、わずか750トンの生産しか達成できなかった。

「ベルテラ」造成期に合成ゴムの研究開発が完成し、1945年にフォードはついにブラジルでのプランテーション放棄を決意する。「戦争での経験から、我々は天然ゴムより合成ゴムの方が商品生産に適していることを学んだ」という見解を発表し、現在の物価を基準とすると約2億ドルの損失を計上して、ブラジル政府に土地を売却した。

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フォードの放棄後、ブラジル政府は僻地にある2つの造成地にある近代施設の維持には興味を示さず、廃墟となった。廃墟は現在、アマゾンの観光ツアーのオプションの一つとなっている。また、プランテーション耕地の多くは農作物の栽培地になっている。

ヘンリー・フォードは、自動車の大量生産技術を確立しただけでなく、従業員に当時高価だったT型フォードを買える水準の報酬を支払うなど、アメリカの大衆消費社会成立に貢献した人物でもあった。フォーランディアが人々の興味をそそるのは、フォードが、その地にプランテーションという自然破壊だけでなく、それを前提にして生まれる豊かなアメリカ社会を持ち込もうとして、そして失敗したからだろう。

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Amazon(輸入盤):
http://amzn.asia/i84xNDX

iTunes:
https://itunes.apple.com/us/album/fordl%C3%A2ndia-bonus-track-version/id293921148
※iTunesではメインの第1曲目『Fordlandia』の単体購入はできない。

ヘンリー・フォードが造成した理想都市フォードランディアについての記事:
https://www.theguardian.com/cities/2016/aug/19/lost-cities-10-fordlandia-failure-henry-ford-amazon

1995年のシンデレラ、華原朋美を振り返る

1995年の秋、ダウンタウンが司会する歌番組「HEY!HEY!HEY!」で歌手の華原朋美を初めて観たときの印象は今でもよく覚えている。当時ダウンタウンが出演する番組はすべて観ていた。華原はまだあどけなさが残る女性だったが、彼女はマニッシュが入ったミニマムスタイルの黒のスーツとパンツスタイルだった。当時の女性歌手はスーツ姿で歌うことも時折あったが、それはステージ用でありいかにも芸能人用と感じさせるものがほとんどだった。そういう衣装を着ないと特別感が出ないということだと思う。しかし、彼女は女性誌のファッション・スナップから抜け出したような黒スーツ姿だった。モデルのような細すぎる体形でもなく、整形顔でもなく、品のいい美人のお嬢様がこれから歌いますという感じである。この番組では歌手がパフォーマンス前にダウンタウンからフリートークでいじられるのが通例だったが、華原の受け答えは芸能人らしさはなく幼い素人のようだった。しかし、その不安定さにダウンタウンの松本人志も浜田雅功もノリノリで競うように突っ込みを入れ続けた。

彼女が歌いだしたのが「I BELIEVE」だ。
歌詞の“Anytime I believe”という英語詞の活舌が悪く舌足らずだけど、
それがかえって魅力的と思ったことが強く印象に残っている。

“輝く白い 恋の始まりは
とてもはるか 遠く昔のこと
Anytime I believe your smile
どんなときでも あなたの笑顔捜してた
Anytime I believe your love
ずっと前から あなたをきっと見ていた

Give me a Chance! Give me a Jump!
これからの未来へ向かう戦い!
Give you a Speed! Give you a Power!
生意気な態度も時にはUSE!

冬の街凍えてた 寒い夜を憎んでいた
愛を語るより 温もりだけ ほんの少し欲しい日もある”

これから社会に挑戦するあるひとりの女性の姿と不安や孤独感を隠せず愛を求める女性像を描いた詞が入れ子のように交差する詞である。

彼女の歌声の音程は安定しておらず技巧的に成熟していなかったが、豊富な声量と伸びる高音を無理なく出していて、これからの歌手としての大成を感じさせていて魅力的だった。受け答えもたどたどしい女性が、ステージに一度立つとスイッチが入って力強く歌い始める。そのギャップが彼女の魅力のように思えた。

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1995年冬、本格的なテレビデビュー期の華原朋美。

「I BELIEVE」に魅力を感じたがシングルCDを買うことはなかった。学生でお金があまりなかったということがあったが、交際相手である華原朋美をプロデュースして恋人の歌手として公衆に宣伝する小室哲哉への反発がブレーキをかけ、「どんなに魅力的でも悪魔に魂は売らない」とでも思っているような感じだった。

※ミニマムスタイルの華原のスタイリングは全盛期の木村拓哉、その後EXILEやE-girlも担当した野口強とその師で日本のスタイリストの草分けであるで大久保篤志がディレクションしている。その他、「I BELIEVE」のプロモーション映像(白のワンピース)のスタイリングは当時「Olive」などで活躍していたソニアパークが担当している。

(下はデビュー時の華原のマニッシュなスタインリングの雰囲気をよく伝える「keep yourself alive 」のシングルのジャケット)

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音楽家として、日本のキーボードプレイヤーのパイオニアとしての小室哲哉は敬愛していた(今でもそうだが)。日本のポップスやロック音楽は英米のそれと比べて、「音の厚さ」がおおよそ3割から5割薄いことが多いように感じていた。1980年代のアイドル歌謡曲のバックバンド演奏がその典型だった。しかし、小室哲哉が結成した「TMネットワーク」は英米ものに比べても「音の厚さ」が十分にあり、サウンドのキレもあり、同時期の英米のサウンドとのタイムラグも少なかった。

SELF CONTROL」「humansystem」のようにキーボード・ギター・ベース・ドラムのシンプルな基本編成でもリズムを刻むだけの無駄な音楽空間がない。演奏者の技量の高さもあるが、TMの音楽設計者である小室はヴォーカルのメロディーとサウンドのリフを組み合わせる設計能力に非常に優れていた。洋楽志向だった私が唯一追っかけていた日本の音楽だった。

小室哲哉は90年代前半からTMネットワークでの活動に力を入れなくなり、ソロ活動やほかのミュージシャンとの共演に力を入れ始めた。TMネットワークはデュラン・デュランなどのイギリスの「ニューロマンティック」の系譜を引き継ぐプログレ・ロックの東洋における末裔だった。90年代はじめにはその路線からハードロック路線の実験を行って、TMは休止に向かいつつ、小室はクラブミュージックに傾倒していく。93年に自分としては高額商品だった2枚組約6000円のTMネットワークのベスト盤を購入して、全曲がクラブ調にサンプリングされているのを聴いてがっくりしていたものだ。

1995年ごろは音楽もファッションも良くも悪くも混沌としていて、選択肢も多く、また古いものと新しいものが交差する転換期だった。小室哲哉はやや玄人志向のTMネットワークの音楽を捨てて、メディアで大量露出してカラオケボックスで歌われることを狙った音楽を大量生産するようになった。サーファー系のパーティー文化を意識したtrfを成功させた。それから、ダウンタウンのお笑いコントに出演して汚れ役もいとわなかった準メジャーアイドルの篠原涼子、明らかに歌手として素養がないような感じのダウンタウンの浜田雅功を小室はプロデュースと楽曲の力でミリオン歌手にしてから、世間から驚異的な存在として認知されはじめていた。

当時は小沢健二とスチャダラパーの「今夜はブギーバック」を称賛することはあっても、メディアに煽られた小室音楽を少し冷笑交じりに観察している人間のひとりだった。「今夜はブギーバック」は若者だけでつくった音楽を自分たちで楽しむという悦びが溢れている曲だ。騒がしいパーティーの部屋から抜け出して、踊り場のソファーに腰かけながら仲間と話し込んでいるような居心地の良さがあった。一方、小室音楽はCMやドラマのタイアップを前提にテレビ局や広告代理店の背広の人間とともに作り上げており、カラオケボックスで女子学生や女子会社員がマイクを持ちながら歌詞が映し出したモニターとにらめっこしているのがその情景である。基本女性の歌い手によるハイキーで技巧を排したストレートな力押しのボーカルを分厚い4つ打ちのサウンドが支える構造で「私でも頑張ればノリノリの歌を歌える」と思わせることを狙っているようだった。

その翌年1996年の春、華原朋美は「I’m Proud」を歌いだした。華原朋美は前年より女らしさを強調し、衣装もスーツからワンピース姿になった。成功した女性がスーツ姿から着替えなおし、高級なホテルの中に佇んでいるような姿だった。

華原朋美は小室音楽だけでなく日本音楽界における文字通りのシンデレラになった。しかし、「I BELIEVE」ときのようには感心はしなかった。むしろそこはかとなく不安を感じた。

“Lonely 壊れそうで崩れそな情熱を
つなぎとめる何か いつも捜し続けてた
I’m proud いつからか自分を誇れる様に
なってきたのはきっと あなたに会えた夜から
声にならなくても想いが時には伝わらなくても
笑顔も泣き顔も全てみんな かならずあなたに知ってもらうの
…I’m proud”

「“崩れそな”って、母音省略するのか」という疑問と
「これって女が男に征服されて性交する瞬間の心理でしょう」
という感想が歌番組の歌詞テロップを見て浮かんだものだ。
それは当時マスコミを賑わせていた「誰にも迷惑をかけないから援助交際する女子高生」の成就の瞬間をも連想させて少し気味悪かった。華原と小室の年齢差は16歳である。

同時期、小室音楽のエースだった安室奈美恵がストリートに出て生きる女性として(同性の)仲間とともに喜びと悲しみを共有する曲を歌いあげているとは対照的に、華原は当時まだ残っていた男性との結婚を自己現実の最終目標とする女性の恋愛至上主義を歌っていたように思った。「I’m Proud」が収録されたアルバム「LOVE BRACE」のアートワーク写真は当時話題になった。華原朋美が顔を小室に埋め、カメラ目線になる小室哲哉の構図は1960年代からアメリカのフェミニストたちがメディアにおける男性上位主義の典型としてよく批判対象としていたものだった。

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この年、華原は小室と年末の紅白歌合戦でともに「I’m Proud」を歌い、二人は交際を公然とする態度をNHKの大晦日の伝統番組でも貫き、広く国民に交際宣言をおこなった。私も含め「さすがにこれは来年、結婚するんだな」と思った人は多かっただろう。同時に私は二人の姿が紅白でも何となく浮いているような感じがした。本物の恋愛をこれほど公衆にオープンにするのものだろうか?シンデレラ・ストーリーをつくるためのビジネス恋愛なのだろうか?TM時代から貴公子然として女(アイドル)好きを隠そうとしない小室がこのあどけない女性に本当に満足するのか?嫉妬や悪意にこの「恋愛」が潰されないだろうか?様々な小さな疑問が何とくなく浮かんでいった。

そして、不安は徐々に的中していく。華原は注目度が上がるにつれて上品なお嬢様像から良くも悪くも幼児性を隠さない女性像にシフトしていった。

シンデレラだった華原の異変を私なりに実感したのは「HEY!HEY!HEY!」でのダウンタウンとのトークだった。出演するゲストミュージシャンがダウンタウンとトークするとき、特に松本人志が前のめりでツッコミを入れるゲストとそうでないゲストがいて、デビュー当初の華原は銀のスプーンを持った天然お嬢様キャラとして、小室ネタなどで松本に燃料を投下できるリアクションをしていた。松本・浜田雅功が競ってツッコミを入れていたが、ある時から華原のリアクションに子どもっぽい無理やり感が出てきてすべりはじめ、松本は軽く流して、時々が浜田がキレる流れに変わったと気になったことがあった。

音楽面でも、華原ファンや恐らく華原自身も小室に期待していた、華原の高音の歌声が生きるメロディアスなアップテンポな曲ではなく、突拍子もないデジタルロックの曲か暗いメランコリックな曲を当てられるようになり、華原も無理に歌っている感じが強くなった。しかし、歌詞も含めて不気味に女性(華原)が男性(小室)に依存するというスタイルは変わらなかった。

音楽界の帝王だった小室が華原に飽きて持て余していることは徐々に明白になっていった。華原朋美はトークで退屈なやり取りを続けるか突然突拍子のないことを叫んだりすることが多くなり、幼児性も突破して頭が少しイカレている(が美人でシンデレラのため許される)女性だとみなされるようになった。

97年、すでに小室は華原だけでなく栄華を極めている自分の音楽活動にも早くも飽きがきているのではと感じさせた。小室はおおよそ3年単位で音楽の嗜好を変えていくのはTM時代から感じてきたことだ。この年、L.A.に拠点として活動する姿がメディアに盛んに露出されていった。音楽番組とともに歌い手と出ることは少なくなり、盛んに小室の海外進出の話が言われるようになった。一方で、オーディション番組の「ASAYAN」で、L.A.のスタジオからの高見から延々と若い女性歌手の発掘に執着する小室の姿に少し失望感を感じていたものだ。

97年の紅白歌合戦に華原朋美と安室奈美恵が出場した。華原朋美の歌唱も見ていたはずだと思うが印象はほとんど残っていない。この年の紅白は結婚・妊娠により休業する安室奈美恵のためのものだった。トリで出てきた安室は20歳にして音楽界の頂点に立った歌手として「CAN YOU CELEBRATE?」を歌った。結婚により人気絶頂で引退した70年代のスーパースター山口百恵とは違い、安室はあくまでも一時休業でありその後の復帰を安室は公言していた。会場も視聴者も、結婚後も仕事を続けるという新しい女性の花道を心より祝福していた。

私はこれを見て、この栄光の瞬間を期に安室と小室音楽を「卒業」する人も多いのではと思った。事実、98年以降、小室がヒット曲を出す回数は目に見えて減少していった。そして、同時に「この曲は華原朋美が本来歌うはずなんじゃないのか?」とも感じていた。

98年、私はテレビを見続けていたはずだが、華原朋美の印象は薄くなっていた。華原が素っ頓狂なコミカルソングを歌っているのを見て「華原に篠原ともえスタイルで歌わせるなんて、(華原を放り出した後でも)バラエティー路線でも通用するように小室先生は修行させてるのかな」と思ったぐらいだ(今振り返ると華原が98年紅白で「daily news」を歌っていた姿のような気がする)。

99年は自分もバイトなどで忙しくなってテレビもあまり観なくなり、華原も小室のこともほとんど視界に入らなくなった(この年のはじめに華原がガス中毒騒動を起こしていたがそれも覚えてない)。小室が政府の麻薬・覚せい剤撲滅キャンペーンソングを担当して「薬物乱用防止総理」に任命されたというニュースについて「なかなか強烈なジョークだな」とクラスメートと話していたような記憶は残っている。このキャンペーンソングは敬愛していたTMネットワーク(TMN)の復活曲でもあったが、その時にはTMも過去のものになっていた。

そしてそれから約20年経って、華原朋美の名前を偶然目にしたとき、20年以上前に「I BELIEVE」をミニマムファッションのスーツ姿で力強く歌っていた若き歌手の姿がなぜか鮮明に蘇ってきて、彼女のことを強烈に知りたくなった。はるか昔に置き忘れていたものが20年後に見つかったような感覚だった。少し時間をかけて小室哲哉がプロデュースした華原の3枚のアルバム「LOVE BRACE」「storytelling」「nine cubes」を聴き通し、華原と小室についての本にも目を通した。

華原朋美はその生き方も含め天性の歌手だと思った。高音を無理なく出せる身体能力の高さに加え、小室時代の華原は技巧的な不安定さが適度な不協和音を産みだしておりかえって魅力になっている。華原を歌手デビューさせた当時の小室の眼力の高さに改めて感心した。

同時にこの3つのアルバムが華原と小室の感情が生々しく氷結されていることにも驚いた。この3枚は日本の若者文化のひとつの絶頂期である90年代後半の社会と時間が生み出した強烈な恋愛文学でもあるとも感じた。。

小室と華原が切り結んだ関係を音楽的な見解から見事に表現した「まこりん」氏の記事がある。文章力も素晴らしい。この文章を書くきっかけになったので、ぜひ読んで欲しい

華原朋美 『LOVE BRACE』それは残酷な物語
http://wagamamakorin.client.jp/kahara.html

華原朋美 「nine cubes」―アルジャーノンは慈母だったのかも知れない
http://wagamamakorin.client.jp/ninecube.html

2017年現在データ配信も含めて廃盤になっている「nine cubes」が「J-POP史上の最凶の怪盤」や「伝説の超駄盤」と今でもネット上で時々話題になっているのも、このまこりん氏の記事の影響だと思っているが、このアルバムが華原を疎んじていた小室のただの手抜きの結果なのかというとそれだけではないような気がする。やはり、まこりん氏の言うように小室の意図というかむしろ執念や狂気さえも感じて、私はある意味傑作にもなっていると感じる。

1998年11月リリースの「nine cubes」。小室が華原に飽きていてレコード会社との契約の問題でいやいや出すのであれば、エースの安室奈美恵のアルバムでもやっていたように久保こーじをはじめとする弟子筋に制作を部分的に投げることだってできたはずだ(むしろそうだったらその後の華原の音楽活動にとっては良かったのかもしれない)。しかし、小室は華原については楽曲の全自作と完全プロデュースを貫いた。

このアルバムを聴いた者がまず感じるのは一発録り思わせる華原のヴォーカルの不安定さというか下手さだ。華原のヴォーカルの不安定さが若くて女性的な揺らぎにうまく調整されていた「LOVE BRACE」と同一歌手のものとは思えない。アルバムのクレジットではわざわざ”Vocal directed by”と入れているが、小室が担当しているのはシングルカットされた4曲目の「here we are」だけで、ほかの曲は華原の歌の収録に立ち会っていないようだ。しかし、この「here we are」でさえも、華原は最初のヴォーカルの入り方に失敗し、その後は音程を外しまくっている。華原がメロディを消化する前に歌っているため、特に低音では喉先で無理やり歌っている感じが強い。時々、苦しさをのぞかせる華原。特に最後のサビはもう唸り声とも言っていい。この曲はドラマのタイアップ曲であり、このアルバムでは一番の力作なのだがこの調子である。ほかの曲はもっとキツイ。(ちなみに華原はテレビの歌番組でもこの曲を歌っているが、テレビでの生歌の方が歌い方がはるかに安定している)

7曲目の「storytelling」は2枚目のアルバムのインストルメント曲とアートワークに掲載された詩を流用して歌曲にした(はっきり言って)手抜き曲だが、前半部はなぜか1970年代の時代劇などで多用されたような電子チェンバロの短調の退屈なソナタになっており不気味極まりない。1分程度経過して華原の夢遊病者のようなヴォーカルが入ってくるのだが、「さみしい顔みつけた あなたはきっと天才」とはじまる小室作の詩が最高に意味不明で無気力な空気を作り出す。廃墟の中で原子力電池作動の壊れた歌うマリオネットの華原の姿と、それをいつでも踏みつけられるような体勢で微笑んでいる小室先生の姿が浮かんでくるようで聴いている側に戦慄をもたらす。ライブでのピアノ演奏の些細なミスにもイラつく完璧主義者の小室が、なぜこの悪趣味な曲をつくってアルバムを入れた意図は何だったのだろう?もしからしたら天才音楽家として気まぐれにモーツァルトの「俺の尻をなめろ」のような狂気が入った駄曲を入れたくなったのかもしれない。この曲は昼間のファーストフード店など適度にノイズが入るところで聴いたほうがよい。日本のポピュラー音楽の巨匠である小室が自身の名前でリリースしたとのはにわかに信じられない無意味さを感じさせる曲であり、かつドストエフスキー「悪霊」のスタヴローキンがごときニヒリズムの世界に歌う人間と聴く人間を引き込む最凶曲でもある。

次の8曲目の「tumblin’ dice」は前曲の何百倍もましなデジタルロックの佳曲だが、「たあんぶうりんだあああいす!!」と絶叫する朋ちゃんは早速入り方を微妙に外しているのだが、修正されることなくずれは増幅していく。もともとこの曲は音程の設定がめちゃくちゃであり、小室先生の共犯アシストを受けながら朋ちゃんもやけくそ気味にヴォーカルを暴走させていくのだが、それがこの曲の場合は逆に少し魅力になっているのが不思議だ。華原が2001年のライブにもこの曲を取り上げられているのだが、バックの音が弱いせいもあるが、華原の歌い方が均されていて少し迫力に欠けるきらいがある。

実はこのアルバムの制作の様子が98年のTBSの「情熱大陸」に収録されている。忙しい小室が20日間L.A.のスタジオにこもって音楽制作をするのだが、まずの課題がこの華原の「nine cubes」である。映像に写っている小室はいたって真面目そうな様子なのだが、スタジオにグランドピアノを持ち込んでおり「このアルバムの制作の間に小室はピアノ曲の作曲に取りかかれるかもしれない」というナレーションが入り、華原のアルバムはまずやっつけたいビジネスだというニュアンスが伝わってくる。挿入される小室のインタビューで語られるのはピアノへの想いで「nine cubes」ではない。(ちなみにこのピアノソロは小室ブームが過ぎてから発売された)

小室は歌い手のためにまず自分で仮歌を収録するのが常だが、この映像でも最初は「モスキートボイス」とファンから愛されている小室独特のお腹に力が入っていないような男性のか細い歌声(あえて言うと大山版ドラえもんの「スネ夫」の声の張りを丸ごとスライスしたみたいな感じか)なのだが、「華原が歌いやすいように」とサンプリングして高い女性音にすると、それが音程を外しまくる華原の歌声にそっくりで「あっ!」という声を映像を観て出しそうなる。やはり華原が小室の仮歌をなぞった程度の通しテイクがアルバムに採録されたとしか思えない。

早朝にL.A.で完成した仮歌とサウンドトラックがISDN回線で華原がスタンバイしている午後8時の東京に送られる。ビジネス的な問題か、小室の心理的な問題か、いずれにせよこのアルバムが「やっつけ」仕事になっている心象はこの「情熱大陸」を見ても拭えない。

このアルバムの音楽的な価値は特に「LOVE BRACE」との対比で考えるとまこりん氏の論考になるのだと思うが、(1)締め切りかビジネス的な問題から小室が基本的に早く処理したがっていたこと(それまで小室期の華原のアルバムは発売延期を繰り返すのが常だった)(2)97年ごろから海外進出を意識して小室の音楽的指向に変化があり、J-POPの王道を行くメロディアスの楽曲よりもサウンドに凝ったマニアック路線に切り替えていた(3)小室がL.A.での活動の比重を置くようになって日本で活動するアーティストとのつながりが薄くなっていた(4)華原との個人的な関係悪化、などの複合要因によってこの世紀末的名作「nine cubes」が出来上がったと感じる。

(4)華原と小室の関係については芸能ゴシップしか情報源がないので、正確なことは一般人には何ともわからないが、自らの感情の持ち方や行き場が楽曲の出来にダイレクトに反映される芸術家小室哲哉の側面がこのアルバムにもあるように思う。

2曲目の“needs somebody’s love”には小室も直に見ていただろう精神的に破綻しつつある華原の描写、もしくは翌年ガス中毒騒動を起こす彼女の未来の予言のように思わせる歌詞があり聴く者を繰り返し戦慄させる。

“ビルの屋上の角に立ち
いろいろ想像して怖かった
結局愛なんてわからない
だんだん危険が嫌いになる
寂しい時に誰かを大切にしていいでしょう
うれしい時に誰かを抱きしめていいでしょう

Everybody needs somebody’s love
Everybody needs somebody’s love
私もこのまま何もわからないまま
あなたをずっーとずっーと必要としてゆくね”

この歌詞を華原に歌わせるあたり、小室の芸術家として(ある意味では正直な人としての)の一面を見る思いだ。単に華原との仕事をやっつけで行うであれば、ビーイング系楽曲的な最大公約数の心情を歌った歌詞のフレーズをちりばめてそつなく凡作として処理するなどしておけば良いのではと思うが、小室は華原への感情を隠そうとしない。それがこのアルバムをある意味の傑作に押し上げている。

小室が自身の分身とも言えるユニットであるglobeでも華原に対する感情を露わにさせた思われる楽曲がある。98年9月発売のシングルでその名も「Sa Yo Na Ra」。味わい深いロックバラードで、globeが90年代のTMNのようにロック路線の実験をおこなっていた時期の作品で、「wanna Be A Dreammaker 」からはじまる4連作シングルの第2弾として発売された。プロモーション・ビデオも悪夢をテーマに相互に引用しあう連作となっている。小室の中核ユニットだけあってさすがにこれらの楽曲の完成度は高く、華原の「nine cubes」の投げやり傾向で不安定・不完全な楽曲群と見事のコントラストを形成している。

この「Sa Yo Na Ra」の歌詞は一般的な別れの心情を表現しているようだが、小室作詞のTMネットワークの名曲「STILL LOVE HER」のような温かい心情はなく、虚無感が漂う。

“Today and tomorrow
すべて受け止めてわかった
Somebody
喧嘩もしたけれども
Lonely day
二度と会えないかもしれない
だけど 自由だけ残った

抜け殻のようにね”

もし、華原との関係をこの歌詞に投影するとしたら、小室側の心情を描いているようにも思える。

この曲のプロモーション・ビデオはよりはっきりとした華原への描写が入っている。

PVは食肉の解体作業の様子からはじまる。その後、連作のPVに共通する外国風のスーパーをぐるぐる回る描写になって、また食肉解体の描写に戻り、解体された動物の頭部が写し出される。そして、その後、スーパーをぐるぐる回る白馬が登場する。白馬は乗馬を愛する華原の象徴である。96年の「HEY!HEY!HEY!」でも華原が白馬に乗って入場するパフォーマンスが行われたほどだ。この後、ビニールに入った赤ちゃんの人形や人間の幼児、親子連れの描写が入り、また白馬が現れて、白いワンピースを来たモデル風の女性が現れる。白のワンピースは「I BELIEVE」と「I’m Proud」でも華原が着ている。その後、その白ワンピース女性とともに魚が現れ、魚と女性がサブリミナル的に交互に描写され、最終的に女性がグロテスクな半魚人になる。魚は小室が目にもしたくない苦手ものとしてTM時代から小室ブーム期まで繰り返しネタにされているもので、小室音楽ファンなら誰もが知っていることだ。

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「Sa Ya Na Ra」PVに登場する白馬。

このPVが小室の華原への感情と関係がないと言い訳するのはちょっと無理だろう。そして、小室は芸術家として自分の感情を作品の中で偽れない人間だともわかる。このPVから感じるのは小室の華原への激しい攻撃と拒絶の感情のように思える。(このPVは2017年現在公式に公開されていない)

基本的に97年以降、華原と小室の関係は悪化していき99年初頭に破綻が明らかになるのだが、ただ悪くなっているだけでなく、華原と小室が優れた音楽的パートナー同志であったことを再認識させる瞬間もあった。97年12月の小室の香港公演である。小室がTM時代から宿願としていた海外進出の重要なステップになるものでもあり、小室も気合が入っている。ライブの冒頭で流れるトランス楽曲は今聴いても色褪せていない。これは小室時代の華原にとっての唯一の本格的なライブ出演(歌番組では公衆の前に1、2曲を歌うことはたびたびあった)であり、彼女は公演のメインとして合計6曲を歌い、globeの代理として彼らの楽曲も歌っている。特に「I’m Proud」と「DEPARTURES」を歌っているときのオーラと存在感はこの記事でも言われているように、華原朋美(1974年生まれ)は小室哲哉にとって1974年から遣わされていたミューズだったのではなかったかとも思わせる。1974年は小室にとって特別の年であり、小室にブリティシュ・ロックの知識を授け決定的な影響を与えた1歳年上の親戚の少女と語らいながら音楽家になる決心をした。その時の思いは小室を音楽家の世界に導いたTM初期の名作「1974 (16光年の訪問者)」にもなっている。(香港公演の一部映像は「華原 DEPARTURES」「小室家族 中国」と検索するとネットでも観られる)

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1997年12月の小室哲哉の香港公演に参加した華原。

小室にもいろいろ事情はあり華原にも問題はあったのだろうが、結果的に小室は恋人としても歌手としても華原を捨てた。実家に戻っていた華原は99年1月末にガス中毒騒動を起こす。華原は食事を作っていた途中の事故と弁明したが、家族が早期に発見しなければ中毒死していた可能性もあった。華原はこの時点で小室が大手芸能プロダクションなどに委託していたマネージメントもなくなっていたようで、華原はマスコミの前に精神的な崩壊の様子を晒すようになっていく。しかし、華原は休みながらも芸能活動を止めることはなく、99年7月に小室へのダイレクトなメッセージ曲「as A person」をリリースする。プロデュースは小室と敵意をもって競合するようになったエイベックス創業者の松浦勝人。松浦は小室にクラブミュージックの魅力を認識させた男であり、二人三脚で小室ブームを作り上げてきたが、97前半に小室と決別している。発売日は小室が復活させたTMNのシングル発売と同日に設定された。

“きっとどちらか まちがってる とかそんな簡単な話じゃなくて
私にはすべてを賭けた いちど限りの冒険だった
多分どんな人だって人として 人なりに人だから
ルールはルール ふたりだけの間にも 欠かせないものでしょ”

作詞は華原本人作である。全体的には小室へ悲しさや恨みをぶつける悲恋・復讐ソングのようだが、“私にはすべてを賭けた いちど限りの冒険だった”という一節は小室に見いだされて恋仲となり、彼を愛し、彼を信じて、絶頂と狂乱の中にあった当時の芸能界とテレビ界の中枢を1年そこらで一気に駆け上がった20代前半の女性としての華原の魂の叫びだろう。

華原は歌手デビュー以来、ほぼ完全に小室に囲われた存在だった。楽曲の提供・プロデュース、所属レコード会社との関係、マネージメント、スタイリング、ヘアメイク、テレビ局のブッキング、そしてメディアに映る彼女のイメージ全体もすべて小室と小室が委託した大手芸能プロダクションが手配したものだった。華原にはライブやファンクラブを通じて生のファンと交流して感触を確かめて活動に還元するという体験もなかった。小室に捨てられたときに、華原は大衆に公開された恋愛の破局による自身の精神崩壊と屈辱感と戦いながら、一方で小室ブーム後の冷たい嘲笑に迎えられる中で、歌手・芸能活動をほぼすべて一からやり直すという二面作戦を強いられた。99年から00年代までの小室ブームへの反動は根強く、他人の面前でTMネットワークを称賛して話すのが恥ずかしくて少し勇気がいる感じだったのを覚えている。

華原はプライドを捨てて新人芸能人枠のリアリティー番組「電波少年」に出演したりして、バラエティに寄って芸能人として復活していくが、2007年に私生活のトラブル・事務所のマネージャー辞任・ミュージカル出演によるオーバーワークも重なり、小室時代から始まったと思われる精神安定剤などの薬物オーバードースの悪弊が出て所属事務所を解雇された。その後、家族に助けられた華原は日本のイーディ・セジウィックにもならず一般人になることもなく、2012年末に芸能界に復帰した。

2017年の華原朋美は失恋ネタを引きずる痛いおバカな中年女性枠の芸能タレントとして切り捨てられることも多いのだが、私にとって華原朋美の姿は、フェリーニの「甘い生活」に出てくるオープンカーに乗る男に捨てられて花を持ちながら道を一人歩くエンマ、男に誘惑されて夜のローマを彷徨い歩く享楽的なシルヴィア、もしくは繁栄がもたらす究極の快楽と堕落の世界を体験して生還した「サテリコン」のエンコルピオのその後の姿にも重なる。

華原朋美という歌手を見ると、私には必ずマニッシュ+ミニマムファッションで迷いなく「I BELIEVE」を歌う姿が浮かび上がり、その時は約束されていたと思われる「1995年の夢」も頭によぎる。1995年は戦争終結から50年という節目の年であり、その後の日本社会の崩壊と変化を予兆させる阪神大震災とオウム事件が起きた年として広く記憶されている。

しかし、華原朋美をテレビで観ていたような世代の多くの人間にとって1995年は開放的な年だった。マイケル・ジャクソンが1992年にブカレストのライブで熱狂する旧共産圏の人たちの姿を見せつけてから、世界は和解してより良くなり、世界は一体になっていくという余韻が強く続いていた。夏にはウォン・カーワァイの「恋する惑星」が話題になり、第三諸国ではない新しいアジアの風が日本に吹き始めた。Windows 95が発売されてインターネットの存在が知られ始め、いつかネットワークの力で世界と人々はより一体になると思った。日本の球界を去った野茂英雄が名古屋の中日ドラゴンズではなくL.A.のドジャーズの勝利投手になった。バブル崩壊による日本企業の動揺によりサラリーマンは「リーマン」になり、会社に頼らない生き方が求められると思われた。「フリーター」はその時はまだ希望の言葉だった。街にはTSUTAYAができて気軽にメディアをレンタルができるようになった。街にはファミレスやファーストフード店が広がり、ポケベルやPHSという携帯通信端末を手に入れて、学生でも家に縛り付けられる必要はなくなった。仲間と一緒に情報収集しながら街を闊歩し、ビルの隙間にできた古着屋とショップをまわって自分の好きな服を買って、新しいスタイルを追い求めた。渋谷の文化は無印良品を通じて身近になった。バブルの豊かさが資産をもった背広の男たちから若い男女に降りてきたのはまさに1995年だったように思う。みんな背伸びしようとしていた。高いビルに住む人たちの世界にはヒビが入り揺らいでいたが、下の地を歩く人にとっては世界が広がっていく年だった。新しいものが古いものを陳腐化させていく、古いものがあって新しいものが本当に輝くことができた年が1995年だった。

1995年に現れた華原朋美が歌手として、90年代のファッションアイコンとして再評価される日はくるのだろうか?もしくは華原が自力で何かヒット曲を飛ばすのだろうか?それはよくわからない。しかし、彼女は何か天賦か運命か何かを与えられた人間のように思える。

彼女が小室から離れた後の歌手としてキャリアは順調とは言えないが、歌手としての成長を見せた曲がある。小室時代の良くも悪くも不安定な歌い方から安定した歌い方になり、彼女は優しさと温かさも表現できるようになった。

2006年の「」(アレンジは2005年のライブバージョンの評判がよい)。

2016年の「君がそばで」。
https://youtu.be/kBdgQsHGYbY

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※この記事は作成途中です。後日アルバム「LOVE BRACE」「One Fine Day」などへの感想と、華原・小室とテレビとの関係についての記述を加えて改訂する予定です。

※この記事の曲名のリンクは原則iTunesストアかAmazonのURLへの通常リンクでアフェリエイトではないのであしからず。

※華原朋美はテレビの申し子の一人であり、特に小室期の魅力はテレビ映像でないと伝わらないと思う。CD音源より生歌の方が上手いことが多いという歌手である(特に小室期後期)。ただ、今の日本に過去のテレビ映像のアーカイブはない。この記事のリンクは公式公開動画以外は自重しているが、ここで言及した歌番組・ライブ動画・プロモーション映像の多くは動画検索で出てくるはずである。

参考文献:
華原朋美「未来を信じて」(ワニブックス)・「苦あり楽あり」(ワニブックス)・「華原朋美を生きる」(集英社)
神山典士「小室哲哉 深層の美意識」(講談社)

参考URL:

2013年、第二次復帰時の華原へのインタビュー。
http://www.billboard-japan.com/special/detail/660

2007年の活動中止までの華原朋美のシングル曲レビュー集。
http://blog.livedoor.jp/manseluconan/archives/53576063.html?p=2

松浦勝人が編集したエイベックスの社史であり日本音楽業界史の貴重な証言。全盛期の小室哲哉のビジネス的な環境を知ることができて面白い。第8章に華原についての言及もある。
http://ameblo.jp/maxmatsuura/entry-10021628435.html

TMファンが的確に編集した小室哲哉の詳細な音楽史。小室ファミリー全盛期時代の歴史を俯瞰できる。
http://s.webry.info/sp/tamanet.at.webry.info/201310/article_1.html